back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2018.05.15リリース

第二百七十二回 <ビンタ>
 何で「ビンタ」なんて表題にするのだろう、と思われるでしょう。私もこんなことを書くつもりはなかったが、半生?を振り返って、何となくチョット書いて見たくなったのである。
 ビンタとは言うまでもなく手で相手の横面を叩くことである。
 昭和十七年秋、太平洋戦争戦況苛烈の時である。半年繰り上げで大学から押し出されて卒業した私は、東部第十七部隊(駒場)の重兵連隊の第一中隊に入営となった。ここは今まで傍近く寄ったこともない馬の部隊であった。われわれ現役兵は「重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボも鳥の中」と揶揄されといた挽馬兵ではなかった。専ら指揮者として乗馬する役割であった。
 近衛師団であったが、丁度マレー戦線から戻って来た歴戦の勇士の部隊で荒い気が漲っていた。
 そうでなくても新兵は鍛えられる、というより苛められる。悪いことをしたなら叩かれても我慢をするが、何の理由もなくして、ほんの一寸したミスをしても古年兵から殴られた。
 学徒出陣であったから、みな大学、高専の卒業生であったが、四人いた東大卒が特に目をつけられ、たいしたミスもしないのに四人並べられて、毎晩ビンタを張られた。生意気だというのか。
 夜が来て、夕食をかきこむと行事が始まる。
 いろいろな芸をさせる。吉原の「ギウ太郎」という罰は、内務班の入口にズラリと並べられた小銃の銃架の間から手を出して、「チョイと、チョイとお客さん、いい娘(コ)がいますよ」と声をかける練習をする。
 「少年航空兵」という芸もやらされた。油にまみれた汚い床の一点に人差指をついて、指を離さずぐるぐると駆け足をさせるのである。眼が回る。少年航空兵の採用試験にあるそうであった。途端にストップっと声がかかる。眼が回ってぶっ倒れる。
 そんなことをさせて、古参兵は新兵苛めを楽しみ、うまくいかないと、直立不動の姿勢をとらせ、両脚を開き、歯をくいしばって立てという。トタンに眼から火のビンタを何発も喰う。
 理不尽もいいところだが、誰に訴える人もいない。内務班長の下士官は見て見ぬふりをしている。自分たちもやらせたから申し送りとして知らぬ顔をしている。
 生れてから親にも擲られたことのない身に時に口から血が流れる程のビンタを何故食わねばならないのか。
 初年兵の数ヶ月が終えて下士官となり、経理学校に入校した時から、こういう訳のわからない仕打ちはなくなったが、私は、こういう理不尽な行為は、自分は決してするまい、と思った。
 固く心に誓ったことで、それからの軍隊生活はその誓いを守った。
 さ、その積りであったが、それから、中支北支と前線に出されている間に三回ほどは、どうしても我慢ができずに誓いを破った。
 その一、私は、中支武漢地区の軍司令部(第三十四軍)で物資輸送の責任者をしていた。厖大な物量である。
 楊子江には、海軍の第二艦隊が警備に当たっていたが、肝心な輸送船が桂林、柳洲などから飛んでくるアメリカ軍の空襲にやられて、まともな船は一つもない。止むなく、一隻三〇トンぐらいの荷物しか積めないジャンクを集めて船団を編成し、之に輸送を託したが、問題は警備であった。
 軍参謀とかけあって、都合四〇〇人ほどの兵力を貰い、一隊一〇人ぐらいで一船団の警備にあたらせた。
 が、ある日のこと、その船団の一つが、支那兵の襲われて、一発の弾も打たないうちに小銃、機関銃、擲弾筒など武器一さいを積荷ごととりあげられて、丸腰になって歸って来た。
 今でも覚えている。指揮官はN兵長であった。戦って負けたなら許すことができても、彈一発も打たずに武器一切をとられてオメオメ戻ってくるなど軍にあるまじき行為だと思うと、ムラムラと怒りがこみ上げて来た。歯をくいしばって立てと号令するや否や満身の力を籠めて三発ビンタをくらわせる。一発でぶっ倒れたので二度立たせて制裁である。
 あゝ、これで自分は誓を破った、と思ったが、後悔はなかった。殴るべきだと思った。
 次は、軍司令部の週番士官の時である。月一ぐらいの割合で順番が回ってくる。司令部の兵隊も、当時はもう社年兵が多く、なかには、現地の然るべき会社の役員なども召集されていた。ある日、交替時に一同を集めて、一場の訓示を与えていると、ただ一人、空を向いて、何だ詰まらないことを言ってやがる、という顔している兵隊がいた。かなり年輩の兵で、漢口に派遣されて来ている某大会社の支店長であった。
 日頃態度がでかい上に私のように若い将校をなめている様子がありありとみえたので、ムラムラと怒りがこみ上げて、思わず一歩前へと号令すると、力一ぱいその兵隊をぶん殴ってやった。今思い出しても、もっとひっぱたいてもよかった、と思っている。
 その三、
 昭和二十年の大晦日、私は、楊子江を下る戦標船(大量生産をするために、全く同型の三千トンクラスの船を造っていた)の輸送指揮官となっていた。戦標船も皆米軍の空襲にやられて、残りは殆んどなかった。経理部の幹候(幹部候補生)五〇〇人ほどと乗せて漢口の埠頭を離れた。渇水期で時々船底でガリガリを岩を噛む変な音が立っていた。南京の学校へ入校させるのが、私の仕事であった。私は、南京から津保線で天津の第四野鉄の司令部に行き、塩などの輸送を督促するのが、主の任務となっていた。中支は塩がとれない。塩の値が砂糖より高くなるようなこともあった。
 夜中に漢口を出航した船は朝九時に九江い着く。晝間は空襲を避けて、兵は上陸である。
 解散。五時集合。
 思い思いに九江の街に散って行った兵隊は、皆何やら抱えて船に戻ってくる。整列して数えてみると一人足りない。ここは敵地、脱走するはずはない。五分、十分たっても一人欠けたままである。一人足りなくても輸送指揮官としての私の責任は果たせない。
 しかし、待つのにも限度がある。やっと一人が現れた時は二十分も定刻を過ぎていた。一人の問題ではない。
 何やら言訳をしている幹候の一人に矢も楯もたまらず一発ものすごいのをくれてやった。揚子江の水に墜落しそうになったので、止めたが、その一発はよく利いた筈である。
 以上、三発のビンタで終わりであるが、いずれも後悔はしていない。
 皆さん、それでも殴った私が悪いのでしょうか。それから約七十年、私は、人を殴ったことはない。殴られたことは、ほんの二、三人ある。いずれも女性である。女性の指は、橈なるので却って痛かったことを思い出す。


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