back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2017.07.21リリース

第二百六十六回 <教えること>
 昔のことである。私の父も母も教員をしていたことがあるが、私は、高校、大学の在学の間、小遣い稼ぎに主として中学生を教えるアルバイトをしていた。
 アルバイトの斡旋は学校の事務局がしてくれたが、週二回、夕方二時間ぐらいで毎月二〇円から三〇円の謝金を頂戴していたから、決して悪い仕事ではなかった。
 家からは三〇円貰っていたから、かれこれ一人前のサラリーマンの月収に近い小遣銭を使っていた。
 そのうち半分で本を買い、半分は映画や芝居を見たり、おでん屋で飲んだりしていた。大学を卒業するや兵隊にとられたが、四〇〇円くらい残っている郵便貯金の通帳を母に渡した覚えがある。小遣いとして、決して少ない金額ではなかったが、終戦後ソ連に抑留され、終戦後三年目に帰って来たときには強いインフレのせいで、あまり役に立たない金額となっていた。
 それと、各家庭に出入りしているうちに、少しは社会勉強になった。というのは、教えている子の父親がしかるべき学歴の人であればある程、子供の教育にはあまり熱心ではなく、反対に小学校で働きに出たような人ほど子供の教育に熱心であった、ということである。
 父親が小学校出だけながら、努力をして小さな船会社の社長となっている家からは、毎週一回二時間くらいの数学の先生で月三〇円のアルバイト料の他、必ず授業(?)が終わればおいしい料理に酒のお燗付きの立派な夕食が用意されていた。
 父親が外交官でいいポストについている家庭では、子供の教育のことは私に預け放し。世の中、そんなものなのかな、という勉強にいくらかなった。
 一時は中学生三人を一緒にして数学を教えていたこともあった。数学に限って家庭教師をしていたのは、他の科目は多少の予習復習が要ったが、数学は代数、幾何、それぞれ二〇〇〇問ぐらいしか問題がないことがわかって来ていたからである。
 そして、ついでに言うと、わかっていることではあるが、子供には当たり前だが得手、不得手があって、更に上級に進む場合は、その辺のことをよく考えてやる必要があるな、ということである。
 私の教え子の一人は数学が嫌いだったし、できなかったが、どうしたことか急に数学を一生懸命勉強するようになって、当時入学の最も難しいと言われていた東京高師の数学科に合格して私をビックリさせたが、やはり一年やって数学は止めて、心理学に転科することになった。学校へ行くのも楽しそうに見えたから、その方がよかったのかな、と思った。
 これは、教えていた子ではないが、中学の同級生に絵をかくのが大好きだが、他の科目にはからきし関心がなくて、授業中も専ら先生の顔のマンガを描いたり、ネンドをひねって女の像をつくったりしていたが、好きこそものの上手なれ、彼は上野の美校に入学して、本職の画家となり、ついに芸術院会員にも選ばれた。
 文部の主査(大蔵省主計局)をしていた私は、彼の要望がもっともだと思ったので、教室当りの経費にモデル代を加算して大へん皆さんに感謝されたことを思い出す。その時記念に彼が遺してくれた海岸の絵(彼は点描が得意であった)は今も私の手元にあるが、いい絵であった。
 あのような場合に、ムキになって怒る先生がいなくてよかった、と今も時に思い出している。
 あゝ、昔のことはみな懐かしい。でも皆あの世に先に行って仕舞った。淋しいな。
 
 


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