back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2017.06.02リリース

第二百六十一回 <化粧と口笛>
 外国語の翻訳が必ずしも多くないというハンディを乗り越えて川端康成がノーベル賞を受賞したのはえらいことだと思っていた。川端(呼び捨てして悪いが、親しみを込めてそう呼ぶ)は私達旧制一高の先輩の作家である。お会いしたことは何べんという少なさだが、じっとあの眼で見つめられると、心の中を見通されるような気がした。最後にお会いしたのは、銀座に新しく開店をした小じんまりとしたバアであって、その名も川端がつけたという「おゆきさん」といったと思う。彼が常連にしていた四谷の福田屋の中居さんの名であった。
 彼の作品としては「雪国」が先ず挙げられる。私も何辺読んだことか。確か私が一高に入学した昭和十二、三年頃の初刊であったと思う。
 しかし、私は、それよりも「化粧と口笛」の方が彼らしい作品であると思っている。さあ、十ペンは読み返したと思う。
 今日も、この小編を書く前にちょっと開けてのぞいて見た。雪国ほどの清烈きはない、といっていわゆる浅草物でもない、大した筋はない、といって、何となく、暖かみのある小説である。
 主人公の女性が始めて彼と朝ともに小鳥の声を聞こうなど、言うところが、何べん読んでも飽きない文章である。
 私は、友人と二人で伊豆の踊子の後を追って天城の山越をした、浄蓮の滝にも足を冷しに寄った。主人公の跡を追って湯沢高井旅館の駒子の部屋も覗きに行った。
 黒々とそびえるように立つ林の間の道を下駄で歩いてもみた。
 伊豆へ行って、下田の港から一晩中揺れる船に乗って大島の波浮の港に寄って来たこともあった。
 何のためだったか。ただ、川端が一高時代に歩いたという道を歩いてみたかっただけである。
 何もよく知らない私は、川端の小説を読み返して初めて、書いてあることの意味を知って、羞しい思いをしたこともある。男女の仲など何も知らなかった、と言っていい頃の話である。
 「化粧と口笛」もそうである。読み物飽きると、私は、その一巻をひょっと聞いてみる。何行か読んで眠くなって、本を投げるように枕元に置く。それでいいのである。
 
 


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