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相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2017.05.09リリース |
第二百五十五回 <小学校A> |
ふり返ってみても、私の小学校時代は格別のことはなかったように思う。父が小学校の校長であるからと言って、特別の待遇をして貰ったわけではなかった。
一年から四年間の持ち上がり担任の教師は幸山先生で、本当に先生らしい先生であった。私は、授業中を含めて随分いたずらをしたので、どのくらいよくしかられたか。それでも繰行を除き学業の成績は一ばんを続けた。 五年生の時、急性腎臓炎にかかってほぼ一年間は家でぶらぶらしていた。 この病気は辛かった。というのは、病気には塩、砂糖、油はできるだけすくないようにしなければならなかったし、又、一番こたえたのは運動をできるだけ控えることであった。遊び盛りであったし、近所のがき大将でもあった私に運動を控えるようにということであった。 そうなる一日のすることは教科書、副読本を読むようなことはいいとして、活字を追うような時間つぶしが一番合っていた。 少年倶楽部、妹のとっている少女倶楽部、その頃講談社が出版を始めていたキングなど、それこそ端まで読んだ、わからなことがあると、直ぐ厚い辞書を引いた。 菊池寛や夏目漱石の全集を片はしから、ようわからないながら読んでいたも、この頃のことであったが。新青年などいう雑誌も面白かった。毎月開かれる夜店で拡げられている古本も随分買ったように思う。モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」全集を買ったのもその頃であった。保篠龍雄訳と、なっていた。その当人に、後年、ロシアの収容所の会合で会って、一高の先輩であることを知って感激が深かった。 一年間腎臓病の病気で休んだことはたしかに小供の頃の私にとっては辛いことであった。それでも教科書などは丁寧に読んで学力は遅れないように努力をしたし、皆と同じように試験の時は、妹(二歳下の)が貰って来た問題用紙に教科書や参考書などは見ないで、全く教室で書くのと同じようにして答案を書いた。 しかし、返ってきた答案用紙はそのように見られていなかったのかも知れなかった。というのは、それまで全甲で通していた私の成績表を学期末に渡された時は、参考みたいな扱いになっていたし、五年生から六年生に進級した時も、お情進級になっていた。教科書など見ようと思えば、いくらでも見れるのに、自制して全く独力で答案を書いた努力は全く認められず、お情け進級となっていたとは、小供心の私を痛く傷つけてけるものであった。 六年生で、皆と同じクラスに復学して、その結果は、文句なく全甲をとれたときは、大へんに嬉しかった。 四年まで通して教えてくれた幸山先生はそれをよく知っていて、ある日校庭で会った時に、慰めてくれたことを今でもよく思い出す。大へんこわい先生で、いたずら好きの私は、四年間叱られつづきであったが、いたずらをしたら叱られられるのは当たり前と思っていたし、本当に真面目な授業を続ける先生であったから、今でもその名も忘れずによく覚えて感謝している。授業は技術もあろうけど、要は教える精神だなと、後年私が生意気にもよく口にもしていたのは本当のことである、と思っている。 小学校の校舎は大正一二年の大震災の時に倒れたものではないかと思うが、二階建の木造には、太いつっかえ棒が外に張りめぐらしてあった。理科や化学の教室はあとから追加したものであったし、本工場や裁縫教室もわれわれが在学中に建て増しされたと覚えている。雨が降るとぬかるみとなる校庭は舗装もできていなかったと思う。冷暖房などは思いもよらなかったし、学年の途中でダルマストーブがとりつけられたような気がする。 まだ、制服ではなく、着物を着て通っている子もいたように思う。 靴をはいていたか、どうもはっきりしない。下駄で登校していたものもいたと思う。運動の時は運動靴にはきかえていたし、校舎の中はスリッパにはきかえていたように思う。 校歌はなかったと思う。中学校の一年か二年の時に、山田耕作作曲で神中の校歌が出来た。山田先生が発表の日に来られて、ハゲ頭を光らせていたのをよく覚えている、ギーバンこと片足の悪い先生が音楽の先生で、山田先生の弟子であったと覚えている。もう今は、あの古い歌は唱われていないらしい。 そうだ、校歌はなかったけれど、市歌はことあるごとに唱われていたように思う。 「されど港の数多かれど、わが横浜に勝るあらめや」とか「チラリホラリと苫屋の煙り」とかいう言葉も頭に残っている。 横浜は開港から急激に発展した町であるだけに、そして町の主要部分は埋立てで造成されたものだけに、町の多くも、長者町とか、黄金町、桜木町、日の出町など、いうお目出たい名が一ぱいついていたし、それなりに急激な発展はあったものと思っていた。 ヨコハマは何といっても外国の会社が本店や支店を持っていたし、これらの会社に勤める外国人が多かったから、南京町は別として西欧の町の香りがあったように思う。外国人の血の混じった人も割と多かった。港町とはそういうものかなと、思っていた。 通りで言えば、元町の通りなどは、外国の街なみまでとは行かないにしても、そういう雰囲気はなくもなかった。 よく言われていたが、ハリウッドのフイルムが船で横浜港に陸上げされるので、最初に封切られのが、長者町の五丁目の角にあったオデオン座で、東京の人はそれを見たさに横浜へやって来て、オデオン座で映画を見ては南京町で御飯を食べてかえるのが、一つのルールだとか、言われていた。 私達も中学生の帽子をズボンにねじ込んで、オデオン座にはよく通った。入口に日本語と並んで英語のプログラムが置かれてあったが、そんな店は東京にはなかったのではないか。 銀ブラと並んでイセブラという言葉もあったが、伊勢崎町の一丁目から九丁目迄をブラブラ歩くのも、休みの日の楽しみとなっていたように思う。 帽子をズボンにねじ込んでと書いたのは、当時は、少年補導員(と言ったと思う)が絶えず町を歩いていて、保護者(父母など)と一緒でなしに盛り場を歩いて映画館などに入ることは禁じられていたのであったからである。 あの頃は、今思ってもいい映画が海を渡って入って来ていた。間牒X二七号のマレーネ・ディートリッヒの笑顔が眼に焼き付いて了って一週間も朝に晩にその笑顔が頭から離れなかったのは、譃でも、鼓張でもなかった。夢に浮かされているような形であった。それから、というものは、それこそ暇と小遣いがあれば、オデオン座に通っていた。勿論、市川千恵蔵や大河内傳次郎、市川百々之助など、邦画も見に行きはしたが、それ程の興味は持ってなかった。 中学校の二、三年の頃、教室では映画の雑誌があれこれとり合いになっていた。われわれも夢中になってスターの名前を覚えた。ハリウッドの全盛時代だったかも知れない。フランスやドイツの名画が東和商事などの手によって、どんどん入ってくるようになったのはその後かも知れない。「会議は踊る」、「望郷」(ぺぺルモコ)、「我等の仲間」、「自由を我等に」、「巴里祭」、「巴里の屋根の下」、「外人部隊」、「女だけの都」、「地の果てを行く」、「舞踏会の手帳」、「格子なき牢(ろう)獄」、「モロッコ」、「トップ・ハット」、「どん底」、「シユウヴァリエの流行兒」などなど、切りがないが。今でも思い出す場面も少なくない。 過ぎた青春を再びという訳には行かないが、そう言っては何だが、確かにいい映画が作られていたのではないか。 映画の見初めは、小学生の頃浅草の道具屋で買った三六ミリの、僅か数十コマの映写機であった。今でも思い出すが、大洲の市営住宅にいた頃近所に住むおまわりさんから僅かばかりのフィルムの回る映写機をうれしそうに見せられたのが本当に初めてであったと思う。大正の終りである。 浅草で売っていた頑具のカメラを買ったのが、カメラを手にした初めであったと思うが、これについては、別に書いたので、省略する。やはり若かったのだろうな、あの頃の映画は何と言っても眼に焼きついているようだ。 一高の同じ部屋に大の映画ファンがいて、彼は、日曜日になると朝から映画を見に出かけて行く。一人である。そして、二本立ての映画館を大てい三ヶ所回ってくる。朝から六本みるのである。これには、われわれもあきれていたが、彼はみてきた映画のうち、よかったものは、短いながら夜解説をする。それが、又、上手であった。 私も映画、演芸は嫌いではない。後年、田村元(タムゲン)議員などと映画議連を作ったのも、映像文化保存推進議員連盟を作ることを提唱し、会長になったのも、或いはこの頃の心の隅の印象がうごめいていたかも知れないと、思っている。 又、別の折に詳しく書きたいとおもっているが、本は国立国会図書館法によって納本の義務が課せられているが、フィルムについては、同法の法令によってその義務規定は停止されている。理由はよくわからないが、一本制作するのにコストがかかること、製作本数が少ないことなどが原因かと思われている。 昭和二十年代に国立近代美術館が建てられた時にフィルムセンターも作られたが、納入の義務がないこともあってか、ドラマ系のフィルム約一〇万本(今までに作られたと言われる)の約四分の一が集まっているに過ぎないと言われている。 私は、早く、政令で納入の義務を規定して、あらゆる映像文化を集収、保管、展示すべきものだと考えているが、諸賢の強力な協力を是非お願いしたいと思っている。 これに関する議員連盟も私が提唱して既に出来上がっているが、まだ活動が充分でないようである。 |