back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2016.06.08リリース

第二百四十七回 <音楽>
 この頃、朝夕行き歸りの車の中で音楽のCDをかけることにしている。笑う人がいるかもしれないが、石原裕次郎の唱う歌、CDで五 六枚のものを繰り返し、繰返し聞いている。
 正直言って、うまくないものの混じっているが、何よりもムードは悪くない。しかし、それにしても中味は、別れ、港、涙、大方悲しい歌ばかりである。愛し合った二人の恋が成就したというような意味のものはあまりない。
 それを繰返し、繰返し、ただ聞き流しているうち成城の家に着くのである。
 何はもう二十年以上も昔のことになる。
 彼の家は私の家から車で数分もかからない。ある晩、私は、何気なくラジオを聞いていたら、ニュースが裕次郎の死を報じていた。
 兄貴は良く知っているし、彼にも銀座のバーで何回か会っていた。いつも、ビールを水の様にグイグイ飲んでいた。兄貴の心配のとおり身体を痛めたのかな、と思ったが、ニュースを聴いて、自分の家の前を素通りして彼の家にかけつけた。
 裏口に通され、名を告げると、そのまゝ勝手口で二十分も俟たされた。どうしたのかと思っていたが、やがてどうぞと広い家の一番奥の座敷に通された。服などの積まれた部屋を抜けて行ったが、彼は布団に眠るように寝かされていた。枕元には急ごしらえの線香台が供えられ、布団の裾には渡哲也をはじめ石原軍団の数名が膝を揃えて座っていた。皆、一様に悲愴な面もちで眼を伏せるようにしていた。
 私が勝手口で俟たされたのは、彼の遺体が病院から運ばれてくる途中であったからだとわかった。
 彼の顔は眞黄色な黄疸色であった。あの明るい眼が再び開かれることがないと思うとただ悲しかった。
 お線香を立てて、手を合わせ、言葉少なに席を立って家に歸った。
 それから、何年たったろう。あの懐かしい赤い倉庫群が取り捲く小樽の運河は、半分埋められて、遊歩道となっていた。その予算は、北海道開発庁の要求でつけたことなどを想い出していた。
 小樽へは三回目ぐらいだったか。二月の北海の海に粉雪の舞う中を裕次郎記念館を訪ねた。
 成城の家でも見かけた沢山の遺品に彼の出た映画の数々のスケールが展示してあった。兄貴と一緒に愛好したヨットも柱に繋がれていた。私の家内も一緒に出た映画のスチールもあった。
 今更歸る人ではないことはわかっていたが、小樽の荒い白い波頭に霏々として舞う粉雪は、いつまでも彼の死を悼むようであった。
 今日も亦彼の歌を聞きながら車にゆられていた。
 諸行無常を感じずにいられまいか。合掌
 
 


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