back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2016.01.20リリース

第二百二十九回 <年賀状>
 いつも十一月になると、来年の年賀状のことが気になってくる。事務所の担当が準備をしてくれるのであるが、新たに賀状を出した方がいい人が落ちてはいないか、喪中の人はいないか、それよりもう亡くなっている人はいないか。いつも気になるのである。
 心がけて整理をさせている積りであるが、手落ちは必ずある。
 前には、宛先不明で戻って来た賀状が一〇〇枚を超す年があったし、いちばん申し訳がないのは、主人はもう十一年前に亡くなりまして、と故人の未亡人からハガキを頂いて、まことに申し訳ないことをいたしましたと詫び状を書いたこともあった。もっともよく知っていた人について、そういうことはなかったが、一面識以上に知っていても当り前の人について、賀状を送っていたりしていたのでは、本当に相済まないと思った。
 宛名を書く前に全部点検をすれば、そのような御無礼をしないで済むとはわかっているが、なかなかそのための時間が取れなくて、一応出す用意をしたものを点検することにしている。
 それでも、つい先だって亡くなった人に出すようになっていたりする。喪中の挨拶状をいただく人も少なくないが、新聞で知った人や、そういう報道のない人に宛てたものは、なかなかわからなくて、時には知っていそうな人に電話してたしかめてみたりしている。
 親戚などは別としても、年賀状を出す先は学校友達が依然はかなり多かった。しかし、この歳になると、同級生、同窓生なども亡くなった人が多くなっている。
 ずっと前は、小学校、中学校、高等学校、大臣、軍隊(初年兵、中隊、司令部など)勤務先、勤務地だった所など知人で賀状をやりとりしていたから、多い時は六千枚を超す賀状を出していたが、知人が次々に亡くなって、今はその未亡人やら子息の名前となって残っている。
 一高の時の同級生が二人いたが、そのうちの一人が今年亡くなった。残る二人に電話して「おい、彼がなくなって同級生はお前と二人になって了った。一度是非二人で最後のクラス会を開いて解散しよう」と電話をかけ、彼もそうしようという返事だったが、まだ実行していない。
 軍隊を含めて、同窓会的なものはあら方解散をし、最後に残っていたソ連抑留者の東京の会もつい先日解散した。身辺寂々たる思いである。
 今月の初め、時事通信のかつての社長村上氏のお別れ会に出席した時にかつて大蔵省詰め財研の記者であった藤原氏に出会った。彼は後に日銀の副総裁になったが、満州生まれの経歴もあって山口淑子(李香蘭)さんと大へん親しく、浅利氏の劇団四季が李香蘭を上演した時は彼藤原氏の本を資料としていたと聞いている。
 藤原氏も大へん文学好きで、財研の頃、二人で読んで気に入った本を毎週のように交換していたり、親しくしていた。
 山口さんは自民党参議院議員で参議院の選挙の際、鳥取まで応援に来て貰ったり親しくしていたし、彼女の弟と私の義弟とは北京中学で同級であったりしていた。三人で一ぺん飲もうという約束を三年前からしながら、何か差支えができて三人の顔がそろわず、その中山口さんが亡くなったので、この約束は果たせなかった。
 未だに残念に思っている。
 浅利さんは前から知っていたが、「異国の丘」でソ連抑留をテーマとする劇を上演する際いくらか資料をお渡しした。病気をされたかで、暫らく名前を聞かなかったが、又お元気になられて、「劇団四季」とは別に芝居を企画するという話を新聞で見て、喜んでいた。
 今月三十日付の朝日の「惜別」欄を眺めて、いろいろ知っている人の名もあって、一しお自分の年を思うようになった。
 「陳舜臣」直木賞作家。この人の名を不思議に中学校のころからよく見て知っていた。「受験旬報」によく投稿していたと思う。
 「坂東三津五郎」私の知っているのはお父上の方で「勧進帳」を見たのが最初。
 「リー・クアン・ユー」シンガポールの初代首相。日経の私の履歴書で、あの強大なイギリスの支配を脱することなどとても不可能と観念していたのに、第二次世界大戦で日本軍がたった二週間でイギリス軍を撃破した現実を眼のあたりにして、マレーシアの独立も夢ではないと思って努力し、独立を勝ちとった、という文章を書いていたことを忘れられない。今上陛下の即位の宴で、当時企画庁長官であった私は同席して、言葉を交わしたことを思い出す。
 「谷桃子」バレリーナ。戦後クラシックバレエ界を代表する花形。何の舞台で見たろうか。
 「町村信孝」前衆議院議長。
 衆議院議員から北海道知事に立候補した時、社会党の力が強い道であったので、之に打ち勝つためには、市町村の国定資産税の制限税率を下げる(北海道には制限税率一杯とっているところが多かった)ことを公約にしたい、という話があり、自民党はそれを認めたが、そのための道内の市町村の国定資産税の減収約六億円の補てんを巡って党と大蔵省(大臣佐藤)と対立し、結局起債を最終的に大蔵省が譲ったのである。
 その時、補償を頑張り、それなしの法案は国会を通らぬ、といった奥野財政局長は佐藤大臣からそんなことはバッヂをつけてから言えと一喝されたという物語がある。もっともそれで奥野が議員になる決心をしたとも言われている。
 その時無事道知事に当選した町村は先だって亡くなられた衆議院議長の父である。
 「南部陽一郎」ノーベル賞受賞者で私の一高の同期生である。
 「阿川弘之」作家。言いたいことを言う面白い作家。佐和子の父。
 「小林陽太郎」元富士ゼロックスの会長。ゼロックスを大蔵省にいれるようにしたのは私ども主計局で、黙って広告に使ったりしたので文句を言って、少しは負けさせた。
 「原節子」ドクターファンクに認められ、日独防共協定を結んだ頃、P.Rもかねて作られた「新しき土」の主演。若くして引退。家内の先輩で大へん親しかった。
 「塩川正十郎」元財務相。塩爺と呼ばれ、税調会長だった私とはもっとも頻繁に協議をしていた。関西弁で怒鳴ったりしたが、要領は悪くはなかった。
 「加藤治子」俳優。多くの向田邦子作品に出演。
 「水木しげる」漫画家。「ゲゲゲの鬼太郎」などの妖怪ものの作者。出身地境港では客寄せの目玉となっている。
 「野坂昭如」私は学生時代小説家志望であったが、作家で成功するのは努力だけではダメ。天賦の才がいると思ったので、文芸の育つ地盤を作る側に回るとつぶやいて大学は法学部に決めた。
 然し、昭如氏が仲人をつとめている講談社の社員の結婚披露宴で、日頃親しくしている学校仲間が、相沢、お前は早まった。文学の路へ行けば、芥川賞はどうか知らないが直木賞くらいはもらえたろうと言った話を、うっかり挨拶の時座興のつもりでしゃべったところ、あとで出席者の一人がづかづか私のところへやって来て、あんな野坂さんに失礼な挨拶はないと、本当に色を成しておこって来た。
 野坂氏が直木賞受賞者であることをうっかり忘れていたのである。
 まあこのくらいにしておこう。
 賀状の話が大分横滑りしたようだが、一月一日、毎年賀状を手にして、それに関連していろいろなことを思うことが多いのである。
 賀状無用論も昔から何回も聞いている。
 一理はないとは言わない。しかし、年に一度久闊叙す機会があっても、決して悪いことではないと思うが、如何。
 
 


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