back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.11.27リリース

第二百二十六回 <小学校 @>
 私の入った根岸小学校は明治五年学制発布と同時に始められた小学校であった。根岸八幡神社の境内とも言えるように神社に近くに建てられていた。五〇人一組で各学年三組、男女組が一組、男子、女子各一組からなり立っていた。男女組は進学組とは言っていなかったが、事実上はそうなっていた。根岸の海岸は東京湾の内海で、町全体どっちかというと漁士町のような雰囲気でもあった。
 従って、海は小供たちにとっては遊び場、小学校へ入学以前から海に入って遊んでいた。五月の終わり頃は寒いな、など言いながら、あさりやはまぐりなどの具とりをしていたし、六月には海につかっていたと思う。夏休みには臨海学校が一か月間あって、朝から時間どおりの規律正しい生活をしていた。大学の水泳部のカッパ連中が小遣いかせぎもあって先生になっていた。八月の学期末には、水泳の出来工合を級別に認定して、それぞれ免状も渡してくれた。
 大学の学生が先生なので、いろいろ質問を浴びて立往生していた姿も知っていた。新団社の主催の臨海学校ではあったが、なかなか明るい雰囲気で、今にして思えばいい学校であった。
 根岸小学校の隣りが八幡小学校、ここにも直ぐ近くに神社があったし、八幡小学校の向いが磯子小学校で、あとで知ったが美空ひばりの母校であった。
 下町という空気であったから、いろいろな商売の店に小供たちも来ていた。海が近いので、船は直ぐ漕げるようになっていたし、伝馬船も波を切って渡れたし、櫓も流れないようになっていた。
 もっとも、あの頃はまだ現在のクロール泳法は一般的ではなかったようで、水府系が基本で、あふり足で小抜手、大抜手、平泳ぎ、立泳ぎなどで練習することが多かった。
 五月にはもう潮干狩で、あさり、はまぐり、赤貝などをよくとった。バカ貝はほうり出していたし、マテ貝は細い錐のようなもので、よくつき出していた。
 掘割川が海にまじるところではハゼがよくつれたし、カニやタコもつれた。カニをつるにはそれ用の仕かけがあってエサはラッキョウをくくりつけたし、飯ダコをつるには鰯などを餌にした。母親に、餌を持って歸ればいいのにとケチをつけられたりしたことを覚えている。
 根岸の海岸も今みたいに東京湾に向いて張り出してはいなかった。どぶどぶ、ぬるぬるの沼のような状態であって、それこそ潮干狩などには大勢の人がくり出していた。大工場が遠慮なく建つようになったのは、私どもが小学校を卒業してからではなかったか、と思う。
 滝の下のヨット屋はデインギーが二、三バイ、スナイプ級が一パイぐらいの小さい店であったが、そういえば、神中の終わり頃から同級の稲田とよく利用するようになった。
 それこそ真黒に日焼けしたじいさんが一人親方で頑張っていた。ヨコハマは東京オリンピックの時小湊が会場となっただけあって、ヨットレースには向いていたが、本牧岬の外と内とでは風も大きく変わることもあって、ヨットを曳いて浜辺を歩いて戻って来たこともあった。
 高校から大学にかけてヨットによく乗った。一回乗ると十円ぐらいはかかったので、アルバイトをして溜めた小遣はあらかたヨットで使って了ったのではなかったか。
 ヨットは機会があるごとに乗っていた。伊豆の宇佐美、山中湖、遠くは別府湾など。山中湖は大へんヨットにいいところであったが、富士山の高い嶺が近く、これが風をさえぎるので、風の方向が変り易く、しかも、富士山の雪どけ水の関係か一メートルぐらい下は氷のように冷たかったので、ヨートフを突風で倒した時は、いきなり冷たい水にほうり出されるような仕舞で、心臓にこたえて亡くなった、という例もよく聞いていた。
 よく考えてみれば、若い時というのは無理を平気でしたものであると思う。一高の寮から良くビールを飲みに行った旭が丘のレストランまで一時間ぐらいを走って、それも散々ビールを飲んだ擧句に又走って歸ったりした。よくどうともならなかったものだと思う。
 そして、寮に戻れば、寮歌の練習、寮歌をどなっても、附近には家も立っていないし、寮歌も歌も唱い放題であった。
 ついでに記しておくと、山中湖の水は一メートル下は氷のような冷たいばかりではなく、藻が生えていて、足にからまる、といういやらしさがあった。
 あの一高の寮には蓄音機が一台置かれていたが、寮歌は別として、レコード何があったのだろうか。森の石松などの浪波節のレコードばかりではなかったかと思う。おかげで、石松のセリフなどよく覚えた。
 そうだ、伊豆の宇佐美の泳歸寮は、かなりけわしい山の上に建っていたので、ヨットを上げ下げするのに随分苦労をして、船底を痛めたといって先輩に怒鳴られたりしたが、この寮に倉橋と来た時に堀越の兄弟と一緒になったことがある。
 足は陸士のOBであったが、終戦後一高に入って来て、弟はわれわれの一年下だったろうか。この兄がフルートが得意であって、銀のフルートに金の舌(?)がついた道具をいつも抱えていた。事実なかなかいい音を出していたが、あのフルートはどうなったのか、人ごとながら気になったりした。
 今までそんなことを書いたことはないが、三男の宏光はいわゆる軍事オタクであって、これは唯のオタクではない。米軍の施設の見学に朝も早くから出かけたりしている。実は私も小学校の時は、それに近くて、ヒロみたいにモデルを山程集めるというようなことはしなかったが、例えば、連合艦隊の艦名、諸元などは、スラスラと答えられるようになっていたし、又あの頃は、プラモデルの走りのころであったが、ボール紙の型紙を切り抜いてドルニエ、ドックスやツェッペリン号を組み立てたりしたことを思い出す。手先が器用だったので、いろいろな廃材を集めて船などのモデルを作ったこともあった。
 そうとハッキリしたことは言えないにしてもDNAというものは続く可能性はあると言える。
 私は、数字が強くて、入試も得をしていたが、英孝、周もその筋のような気がする。ヒロは葉子系で数字にどうも強くなさそうである。
 
 


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