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相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2015.11.06リリース |
第二百二十三回 <読書> |
よく名簿の備考欄みたいなところに趣味は読書と書いてある。読書、散歩、音楽などは趣味のうちに入らない。本を読むことがないから趣味は読書としておくようなものだと言われたこともある。それに違いがないが、それにしても、私もちょっと便所へ行くにも、長そうな時は、必ず本か雑誌をつかんでいる。
乃木大将だったかは、便所に棚をつくって、必ず何冊かの本を置いておくことにしていた、とかって読んだことがある。 私の場合も、中毒のようなもので、手ぶらで便所に入ることはまずない。もちろん大の場合であるが。 便所の中は、不思議と精神が統一して、文章もよくすらすらと読める、という人もいる。 ともあれ、便所で本を読むには若干の工夫は要る。 まず暗くてはダメだ。百ワットにしておく。小さい字のもの、例えば、昔よく見た上下二段組みの全集本などは不適である。活字は大きい方がいい。しかし、字の大きい本、とくに上質の紙の刷った本などは重くてよくない。小型の、どこで切ってもよいような文章の本がいいが、そうとばかりにはいかない。大型のアート紙の多いものなどは持ち重りがして不適当である。 寝ながら読むのが一番好きである。この癖は、小学校五年生の時、お多福風邪から急性腎臓炎になり、丸一年学校を全休した頃からとくに目立つようになった。寝た方が文字が頭の中へ入り易いような気がした。腎臓病というのも面倒くさい病気で、運動をできるだけ控える。塩気、砂糖気はできるだけ避ける。ショウユもダメ、できるだけ栄養になるものは食べないで、横になっていた方がよい、というのだから、十やそこらのあばれ盛りの子供には大へん辛いものであった。 しかし、本を読む癖は一層強くなったし、学校の勉強も寝てすればできるし、ある意味では、成績がよくなる原因ともなったが、と思う。 もともと本を読むのは嫌いではなかったが、中学二年生のとき、東大国文出の犬養孝先生が着任して、教科書以外の文芸書にも眼を開けてくれたことは、私には、強い影響を与えたと思う。 中学二、三年の頃は、日曜になると朝から野毛の図書館に出かけて、好きな本を片っぱしから借りて読んだし、ノートも随分作った。 犬養先生は、その後、台北高校、大阪大学、甲南女子大学などの教授をし、萬葉の世界ではすっかり名を挙げられた。 私が、一高の時、小説家を志すか、どうか、大いにまよったのも一つには犬養先生の強い影響めったかも知れなかった。先生も罪なことをしたな、とふと思うこともある。 本は小説本が中心であった、どんなものをおもに読んだか。書き出す日もあるかも知れないが、手あたり次第と言った方がよいだろうか。 大袈裟に言えば、津の東西を問わず、ギリシャ、ローマの時代から近現代にわたり、読んだのは一高の頃であろうか。寮の電灯は十二時に消えるが、枕元にはローソクを立てての、いわゆるロー勉もやったし、寄宿寮の二階の読書室は夜通し、電灯がついていた。二時、三時、物音も消えて、本を読むのには、もってこいの環境であった。 その読書室で、読むだけでは不足だったのか、自分で書くことを始めた。四百字詰の原稿用紙四〜五枚を一時間位で書いたろうか。 然し、一人前の男として性の経験も全くなかったのに、男女の交情についてもペンを走らせていたのだから、今から考えても幼稚なものではなかったか、と思う。 本は溜る一方であった。しかし、先の大戦で家ごと焼夷弾で丸焼けになって了った。 入営以来六年目にソ連抑留から歸って来ると、綺麗サッパリとなくなって了った本に却って何の未練も涌かなかったが、暫らくし又本の虫がうずき出したかして、手あたり次第に本を買うようになった。 やはり、本はいいものである。タバコも止め、酒もおしめり程度となってくると、さて、趣味は本が又生きてくるようになった。唖唖。 |