back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.11.02リリース

第二百二十一回 <ソ連抑留>
 ソ連で抑留中にいろいろな体験をした人が多いと思うし、又、全く捕虜になったと思っていた人が多かったと思う。しかし、われわれは本当にソ連と戦って負け、そして捕虜となったか、と問われれば、そうだと即答しかねるところが余りにも多い。
 確かに、われわれ軍司令部に在籍していた将兵も昭和二十年八月十五日の正午の天皇の放送によって全面(よくわからない)降伏したしたという事実を知った。
 八月九日、不可侵条約を破ってソ連軍が満洲、北朝鮮、樺太、千島に侵入して来たことは直ぐ知った。その頃にどういう命令が軍司令部から下されたか、はっきりした文章が残っていないようなので、まことに残念ながら事実は明らかではない。
 ただ、私の記憶では、積極的にソ連軍と戦えというような命令ではなく、「抵抗しつつ下って来い(後退して来い?)といったまことに煮え切らないような文句であったように思う。一体、何だい、これは、というように司令部の将校連も思ったと思う。
 軍はそれでも武装をしていたから、そのような命令をどう解釈して行動したかはよくわからないが、まことに抵抗しつつ後退することも可能であったし、事実そういうところもあったと思う。
 われわれの所属した第三十四軍は北朝鮮の北の端までが管内であったから、ソ連の上陸軍に激しく抵抗し、上陸船艇を撃退して意気盛んな部隊もあったと聞いていたし、ソ連の言う九月の初めまで戦闘を続けていたところもあったように聞いている。しかし、これらの記憶はまことに不明瞭であって、どこまで本当か、確かではないが。しかし、忘れないうちに、覚えていることだけを書き留めることにしている。
 とにかく、多量の戦車、列車砲(というのか、大砲を積載した装甲車がなだれ込み、われわれの軍司令部が駐屯していた庭に所狭しとばかり駐留したのは、さて、八月十五日からは、少なくとも数日を(もっとあとかも)過ぎていたと思う。砂塵を浴びた泥のように汚れた機械化部隊は、われわれの三八式歩補兵銃で身を固めた歩兵部隊の敵にはならなかったから、もし假に戦闘が縦続していたら手酷い目に会わされていたに違いない、と思った。
 ソ連軍は独ソ戦で戦い抜いた戦歴を身に帯びていた。
 どこか他の所でも書いたと思うが、何故全くあてにならないソ連邦と不可侵条約を結ぶような愚を犯したのだろうか。時期を調べる必要があるが、その前後、ソ連邦は連合軍と手を結び、共闘を約し、戦果の分割について激しいかけひきを行っていではないか。
 これらのことは無論裏で行われていたから、日本側は承知していなかったとういう遁辞が反ってくるかもしれないが、それにしても、日本は何というお人好しの国で、間抜けであったと言われても致し方なかったのではないか。
 その結果、全く不必要な被害を蒙ったのは、われわれではないか。
 われわれは、軍の命令を疑わず、黙々として、それに従って来たが、こんなことでは、われわれも身命をかけて自らの行動を決して行かないと、いつどのような眼に遭わされるかわからない、というように思わざるをえないことになって、それこそ、軍の、国の、一致した行動など期待すべきでないことになるのではないか。
 軍の将校の大多数は一般の学生だった幹部候補生あがりのものが占めていた。陸士その他いわば職業軍人としての知識、能力は持っていなかったかも知れなかったが、学生上りなるが故に、いい加減な勤務をするというようなことはなかったと思う、それぞれ身に期するところがあって、学校教育も受け、入社もし、それなりに努力を誓っていたものと思うが、それが、戦争の場に叩き込まれたのである。
 いい加減な勤務をし、一日も早く、戦線を離脱し、故郷に歸ろうと思っていたものが、なしとはしない。当たり前である。しかし、私も何年か、彼等の中にあって、彼等とともに暮らしてきて、実体を幾らかを知っているが故に言えることは、例外はあるにしても、大部分の学生上りの将校は真面目に仕事をしたと言える。と思っている。
 逆に職業軍人のなかには、立身出世を眼前の目標として、専ら、点とり虫的行動を繰り返していたものがいたし、又如何にして実際の戦闘から離れて身の安全を図ろうと努力をしていた者もいたことを承知している。知識、能力その他軍の戦闘本部に置くべき人物として、そういった資格を持っていたと思うが、なかには、参謀肩章を吊って、徒らに命令的な言辞を弄しながら、身は、敵弾の遠い場所にいて、厚い防弾施設に身を置くようなことをしていなかったか。見ていないようで、人は見ているものである。
 も一つ、ついでに言うと、学徒出陣の将校はそれで立身出世をしようと考えるものはないと言ってもいいが、職業軍人の者は当たり前だけど、どうしてもいいポストにつきたがる。悪いことは言わないが、それが目立ってみっともない人がいた。
 も一つ、これは許せないことだけれど、終戦のあと、軍の物資の処理などについて、先づ自分のことばかりしたがる人がいたことである。軍隊一筋で生きて来た人に身よりとなる軍隊がなくなったのだから、わからなくもないが、それにしても、ドサクサにまぎれていろいろなものを私物として自家などに運ばせる、というような者もいたという。それで、大へんな財産をもって帰った人の話も知らないわけでもないが、そのまゝ見過していいのだろうか。
 
 


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