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相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2015.10.30リリース |
第二百二十回 <運> |
今も運だと思うことがいくつもあるが、私が主計局に入って二十年余も勤務するようになったのも運であると思う。
昭和二十年八月十四日、丁度終戦の三年目にソ連抑留から解放され、舞鶴に上陸し、家に歸るや一日置いて大蔵省に出かけた。もう辞めて弁護士となる決心を固めていた。が、官房長(河野一之)、秘書課長(大月高)に会うと「よく無事で戻れたな、早速出勤しないか、待遇は残っていた連中と同じにするから」という暖かい言葉。 実は、その間に調べたら、進駐軍の支配の下で制度がかわ変っていて、司法試験に合格していても、二年間安給料で司法研修所に通わなければならないことがわかった。私は、もう既に結婚の約束をしていたので、そんな月給では暮らせないと思ったし、切角官房長なども親切に言ってくれるのだから、それに乗ろうか、とパッと決心を変更してしまった。 シベリア鉄道二十四日間朝夕思いつめて出していた大蔵省を辞める決心は瞬時に飛んでしまった。 その返事をして間もなく国有財産局賠償業務課の首席事務官に補されたのである。 盲腸を切ったのは、その少し後であったが、秘書課長に廊下で会ったら、君等の仲間はもう税務署長は済んで、地方局の部長クラスになっている。今どこか部長のポストが空いたらと思って探しているから、もうちょっとまっててくれと言う。 私は、途端に、いえ部長になどならなくても結構です。遅れついでにどこか署長からやらせて欲しい、と答えておいた。これは本心であった。 それから一週間も経たない中に、秘書課長からの呼び出しで、京都下京の署長が空いたから行かないか、とのこと。京都なら行ってみたいと思って、結構です、お願いしますと二つ返事をすらすらして仕舞った。 京都に赴任した夜に管内の酒屋の宴会に当った。せいぜい飲んで、酒の好きなところをいささかご披露してしまった。 関西は灘に並んで伏見などの酒処がある。たしかにうまかったし、京料理も舞妓も大へんよかった。 ところが、僅か半年で本省へ引き戻された。矢部君という運輸省からの交流人事で来ているキャリアーが省の人事で急に戻ることになったその跡をうめる人事であった。逓信の主査で、逓信省がGHQの指示で郵政と電気通信の二省に分割された後であった。主査としての、第一の仕事が双方納得をしていない両省の人の配分をも一度やってくれ、と言うものであった。 私は、私が出した裁定には従って貰うという一札を両省の経理局長からとって、再配分の難問を預った。来る日も来る日もタイガー計算機をガラガラ回して、結局私の出した結論は郵政省から電気通信省に四千数百人を移すというものであった。両省とも不満らしかったが、一札をとられているので致し方はない。クリスマスの夜、GHQCCSの担当局長ミスター・ウォーデルをクリスマスパーティの会場に追いかけてOKをとったことは今でも忘れない。 郵政省は取扱い物数の増加を理由に別途(当初要求)で三万人の増員を要求していたので、やっとこれで分割問題は落着いたが、増員問題が残っているから、も一戦司令部とやろうと言うと、主計課長(坂田)など郵政の連中は反対すると言う。何で、俺が認めているのにひっこめちゃうのか、となじったら、又減員など言い出されたら叶わないから、もう止めてくれと言う。不承不承、私も手を下した。ミスター・ウォーデルが何を言い出すかわからないと、心配するのも、いわれなき非ず、と私も思ったので矛を収めた。今でも忘れない一幕である。 |