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相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2015.06.26リリース |
第二百十四回 <呂武集団輸送振興隊> |
今から見れば、戦時下であったせいもあると思うが、何をするにも早かった。
楊子江のジャンク船をかき集めて船団を次々に作った。一船団せいぜい三〇隻、一隻の積荷は二、三〇トンぐらいであったから、一船団でやっと千トンぐらいの積載量であった。それでも、鉄鋼船が米軍の爆撃によって、あら方沈められたか、破壊されたかしていたので、それなりに貴重な存在であった。 軍隊は窮屈なところであるが、それでいて結構弾力的な行動もできる。経理部の一主任将校である私が、ジャンク輸送が安全に遂行できるようにと警備隊の編成を願い出た時も、あっさりと命令が出て、約三〇〇人の護送中隊が私の指導下で使えるようになった。対日還送物資の輸送が大陸における作戦の一つの大きな柱となっていたこととは言え、軍の経理部が一ケ中隊もの直属部隊を持つことは異例であった。第六方面軍の参謀部のバックアップもあったせいだと思っている。 それにしても三〇〇名と言うと、一寸した場所が必要で、爆撃でかなり多くの施設がやられているだけに、宿泊施設の確保から、何はともあれ走り回らなければならなかった。 輸送船団には、日本の駆遂艦の名前を借用し、その行動の現在位置を示す大きな盤を私の机の後ろに貼ることにした。 昭和十七年に日支事変の始まった頃、上海を中心にして南支那海を走り回っていた海洋型のジャンクは一隻、二、三〇〇トンの荷物を積めるものが多かった。一〇隻で三千トンともなれば、鉄鋼船にも必敵する。 それらの船の多くは、日支事変の拡大とともに楊子江を上へ、上へと追われて、かなりの数が洞庭湖に入っていた。戦が始まって五年以上に経っている。故郷を離れて久しぶりに彼等も上海方面には一度戻ってみたい。この彼等の宿願と切角買い集めた物資を下流に送りたいわれわれの願望とか期せずして合ったので、海洋型ジャンク船団の編成となったのである。 とり敢えず、確か双竜洋行が一ケ船団に還送物資を山と積んで下流に下ることとなった。ところで、ここで思いがけない障碍が発生した。というのは、楊子江は海軍の縄張りである。漢口から下流に荷を送るに海軍の許可が出ていない、といって出船差止めをくったのである。 さあ、納まらないのは、われわれであった。輸送能力のある船を持っているならともかく、何もそういう能力が全くなくなっているくせに、水の上は自分の縄張りだから、など言うのはチャンチャラおかしい。 ここではしなくも、陸海軍の間のいがみ合いとなり、漢口の海軍武官府と第三十四軍経理部との権限争いとなった。戦いが苛烈になっても、否、苛烈になればこそ、この種の争いも激しくなる。いがみ合ったまゝで日が立って行く。 われわれは、上級軍の第六方面軍参謀部にかけ込む、三十四軍と武官府との口論となる。そこで、方面軍の参謀が出て来て、双方言いたいことを言い合った上で手打ちとなった。 ジャンクは陸軍で動かしてよいが、警乗は青幣に委せる、という裁定である。青幣は楊子江を支配する秘密結社である。その兵隊を双竜洋行の契約ジャンクに乗せて下流に下って行くという。何だか、変だが、そうしないと船が動かないとなれば、背に腹は代えられぬ。 翌朝六時頃、霧の晴れぬ楊子江のバンドから大型ジャンクが兵隊のあのチャラメルとともに一斉に出航して行くのを、見送るのはわれわれであった。船団に乗っている日本人は船団長と船海長だけ。青幣の青い軍服に囲まれた二人はバンドで見送るわれわれにジーッと敬礼をしていた。無事上海に着いたか確かめる暇もなく、われわれは二十年六月末、京漢線の貨車で北京へ向かうことになった。あのジャンク船団が無事目的地まで着くことを祈るばかりであった。 それにしても、楊子江は大きい。漢口辺で川幅は四、五キロあるではないか、千満の差は激しくて、一万トンの船も楽に遡上できるが、渇水期は荷を軽くしても船底をこする音がする。昭和十九年十二月二十九日漢口を発つた三千トンの戦標船も夜はゴリゴリと漢気味悪い音を立てて川を下っていた。 相沢主計少尉は八〇〇人の経理部見習下官の輸送指揮官としてただ一人の尉官であった。 ブリッジに立って流れて行く星空を見ながら、南京の経理学校幹部候補生隊に生徒を無事送り屆けることができればいいが、とそれのみが深く気にかかっていた。 |