back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.06.17リリース

第二百十三回 <飛行機>
 私が初めて飛行機に乗ったのは、昭和十九年、経理部見習士官として北京の方面軍司令部へ、そこに一ヵ月余りで南京の総軍司令部へ、そしてすぐそこから漢口に駐屯している武漢防衛軍司令部へ転任させられ、南京から漢口へ向かう時であった。六月だったと思う。
 三菱の空冷式双発の輸送機で、軍用ではなく民間航空機であった。三十人かそこらの座席の、当時としては中型機とでも言えるか。
 散々アメリカ空軍の銃爆撃に荒らされた南京飛行場から出発したが、いつ敵機が飛んでくるかと、窓の外を一心に眺めていた。それらしきものの姿を認めないまま二時間くらいで漢口の飛行場に着いた。ゴロゴロと音を立てながら滑走路を走る機体の中で、やれやれと思ったことを思い出す。
 漢口は当時人口六十万人とか言われて、街中の商店街(江漢路)もなかなか立派で賑やかなので、これなら何とか暮らせる、というような安心感を覚えた。
 軍司令部は市の外れの競馬場を占拠して作られていたし、宿舎もそれに附設していた。
 軍隊は命令一本でどこへでもいかなければならない。暑い日射しを浴びて、汗だらけになって焼けたアスファルトの路を歩いて数日。今度は第十二旅団司令部経理勤務班長として咸興に赴任せよと命令された。
 咸興で米雑穀から材木などいろいろな物資の収買に当たっていたら三、四ヶ月ほどして、漢口の軍司令部経理部に転勤、庶務将校だった。半ば宴会副官みたいで結構忙しかったが、ここも二、三ヶ月で街中の調弁科に転勤され、今度は屑鉄、非鉄等の収買、調達物資全体の梱包、輸送の主任将校となった。イギリス系の銀行の支店であった三階建ての建物を事務所兼宿舎として使っていた。ここでの生活はなかなか快適で、若い飲み仲間の将校と毎晩遊ぶのに忙しかった。
 対日還送となる物資の収買を陸、海、大東亜三省の協定で陸軍が担当することになっていた。その調達業務であった。猛烈なインフレを少しでも鎮めるために見返物資をばらまいていたが、その中でも大事なものは塩であった。北支は青島塩、山西の岩塩等に恵まれていたが、武漢地区は塩が不足し、時には砂糖よりも高かった。
 そこで北支から塩の輸送を促進するため、昭和十九年も押し詰まって十二月二十九日アメリカ空軍の爆撃の犠牲となってわずかに残った軍標船で漢口から揚子江を下り南京に向かった。
 南京からは津浦線で北上するが、帰途南京から揚子江を遡上する船がなくなって、南京には三万人以上の兵隊が滞留し、いよいよ仕方なく歩いて武漢地区へ、そこからまた前線に向かうことになっていた。
 陸軍の停泊場司令部から漢口へ行く船のひと部屋を空けたから乗ってくれという連絡が入った。これをのがしたら次はいつ船に乗せてもらえるか、わからないという状勢であった。しかし、なんとなく、どうしてもその船に乗る気がしない。総司令部の知っている参謀に航空の便も頼んでいたが、何時になるかわからない。しかし、どうしても船に乗りたくなかったので、見送ることにした。
 この船は九江で浮流機雷のためにたくさん積んでいた老幣(古い銀行紙幣)もろとも揚子江に沈んでしまったということを後で知った。
 漢口の飛行場について、司令部に直行したら、「おい、脚があるか」とあちこち仲間の将校から声がかかった。南京からは、例の船に乗るという電話が入っていたが、それを取り止めて飛行機に乗るという連絡が入っていなかったので、相沢主計少尉は九江で川底に沈んだものと思われたのであろう。
 乗った飛行機は陸軍の高等練習機(コーレンと呼んでいた)であって、八人乗り位。機長と機関士が並んで話しているのが、よく聞こえていた。米軍のP五一などが数機飛んでいるが、どうするか、と話し合っている。まあ、我々が着く頃には敵さんもいなくなっているだろう、などと呑気なことを言っている。こっちが気が気ではなくて、窓の外を見っ放しでいたが、結局、敵機には会わずじまいであった。
 私に同行するはずの下士官は、九江で札束もろとも亡くなってしまった。運としか言いようがない。
 戦前飛行機に乗ったのは、その二回しかない。
 戦後初めて飛行機に乗ったのはいつかと考えてみたが、どうもよく思い出せない。北海道へ飛んだのが最初かな、という気もする。あの頃、道新だと思うが、一面題字の下に本日空路による来道者として、便名とともに乗客の氏名が全部載せてあった。
 当時、夫婦で乗ると一人は半額、往復買うと帰りは半額。したがって夫婦で往復を買うと二・二五人分で買える。というので、羽田でその辺の人とその場で夫婦と言うことにして切符を買うようなことがあった。そういう新聞の紙面を見た奥さんが旦那にあなたは誰と北海道へ行ったのと喰いついて、大騒動となった、ということもあって、そのうち氏名の掲載は取りやめとなった。人さわがせなことである。
 飛行機の好きな人も少なくないが、大嫌いな人もいる。私のよく知っている人にもいる。
 例えば山口淑子さん。御夫君は外交官であったし、彼女も国際人であったから、そんなことはないだろうと普通思うが、そうでは無い。
 いつか、選挙の応援で鳥取県の米子に来られた時に新幹線で岡山、そこから伯備線で米子という段取りになった。ところが、伯備線はカーブでスピードを落とさないように振り子式の車体になっている。山口さんはこれはとてもダメと言われたので、帰りは岡山まで車でお送りした。
 もう一人思い出すのは、米子で名の知れた菓子の鶴田屋の社長。私の後援会の青年部長で長身の豪快な男。これがどうしたことか飛行機が大嫌いときていた。万止むをえなく乗せられる時は、機体が動き出すと同時に座席の両脇の肘掛けにしがみつき、青い顔の額にじっと冷や汗を浮かべる―と見てきたようなことを知らせる奴がいるが、そんなこわがり方であった、という。
 今年一月山口さんの偲ぶ会がホテルで開かれたとき、突然の指名を受けて立ち上がった私は、つい飛行機の思い出を口走ってしまった。「李香蘭」を共著した藤原作弥君と三人で一席昔の思い出話をと何べんも計画しながら、ついに果たさなかったのは返すがえすも心残りであるが、彼女もなくなった。
 昭和二十九年、私が主計局の総務課の主計官のころ、バンコックで開かれるエカフェの会議に出席せよという命令を受けた。これは昭和二十四年GHQ時代、米国のGIビルによる米国の大学入学試験を受験したら偶然私は六千人に一二〇人という難関をパスしたが、その前年にソ連抑留から解放されて六年の兵役を終え、やっと役所に戻った私にナショナル・リーダーという三〜四ヶ月の米国研修制度があるから、それにしたらどうかと平田次官など先輩が言われるのに乗って、留学を取りやめていたところ、その翌年にナショナル・リーダーなる研修制度が廃止されたので、先輩たちが気の毒がられてバンコック出張となったように記憶している。
 そこで、私は十日間かそこらの出張ではいやだとごねたら、一ヶ月やるからどこへでも行ってこいという。八月の暑い日差しの中、マニラをふり出しにジャカルタ、シンガポール、バンコック、カラチ、ニューデリー、カルカッタ、ラングーン、香港という長い旅程をなったのである。
 プロペラ機の旅行で、カラチからニューデリーに飛ぶインドの国内機では、ひどいエアポケットに何回も落ちて、思わず、したこともない神仏への祈りもしたことを強く覚えている。
 その翌年、各国の予算編成制度を調査してくるようにと丸二ヶ月間の外国出張を命じられた。
 六二日間は長かった。羽田からウェーキ(給油)、ニューヨーク、ロンドン、パリとよく歩いたと思う。
 世界一周の切符を買っていたし、ルートを外れることもあったが、長い旅であった。
 旅の終わりに残った金をはたいて香港でライカUFを手にした時は永い間の念願も叶って嬉しかった。二〇〇ドルであった。
 トランク一ケ、鞄一つの旅であったが、ドイツで買った鳩時計のおもりが重たくて、制限重量を超えそうだったので、重量検査の時はそれを外してポケットに突っこんでいたことも忘れられない。
 六十二日目に羽田に着いた時、家内に抱かれて迎えに来ていた長男から「おじちゃん」と言われた時には、あれれ、忘れられたのかと思った。二つの子供にとっては、随分長い空白であったのか、と思った。
 大蔵省には三十年近く在職していたが、ほとんど主計局で予算の仕事をしていたので、比較的海外に出かけるチャンスは少なかったと思う。
 衆議院議員になったのは昭和五十一年であったが、それからは多い年には数回海外に出かけていたので、航空機を利用する機会も当然多くなっていた。
 出かけた国(都市)の名を並べてみる(ただの中継点は除く)(既出の分も除く)。
 コペンハーゲン、オスロー、ベルゲン、ストックホルム、ヘルシンキ、サンクト・ペテルブルグ、キズネル、エラブガ、カザン、ジェネドドリスク、ハバロフスク、ウラジオストック、北京、漢口、武昌、咸陽、徐州、天津、大連、新京、奉天、咸寧、上海、蘇州、南京、九江、鄭州、開封、広東、マカオ、台北、台中、台南、高雄、日月潭、コタバール、クアラルンプール、ジャカルタ、バンドン、コタキナバル、バギオ、ハンセサ、アラスカ、ヴァンクーバー、オタワ、モントリオール、コスタリカ、ヒューストン、アマンジオ、イグアス、ブエノス・アイレス、ブラジリア、サンパウロ、リベルダージ、リヨン、マルセーユ、モナコ、カンヌ、ニース、ストラスブルグ、ミラノ、フィレンツェ、マラトン、ギリシャの島々、ルクソール、アスワン、トリポリ、マドリッド、バルセロナ、グラナダ、ラスパルマス、リスボン、エボラ、ヨハネスブルグ、ケープタウン、などなど。
 世界五大陸(数え方で六とも言う)の中で私が足を踏み入れたことのないのはオーストラリアである。
 あれはもう三十年近くも以前になると思うが、選挙区の後援会で(といっても主として私が計画)して韓国、台湾、中国、香港、ホノルル(二回)といった近隣諸外国への観光旅行を催していた。
 旅行会社ではないから利益を挙げる必要はないし、団体旅行(多い時は百人を超していた)の割引を充分利かせたりしているので、内容に比べて一般の旅行会社の企画する旅行より安く、又、何よりもお互いに顔見知りが多いので、その分気楽な旅行だというので人気があった。(と自分では思っている)。
 今度はオーストラリアだといささか張り切っていた出発の前の日、国会中なので一応国対委員長梶山に断りに行ったらダメだという。委員の代わりは立ててあるし、そこにいる副委員長からよろしいという返事も貰っていたので、今更ダメと言われても困る、と言ったら、副委員長(北海道旭川選出のなんといったかな)はバツが悪そうな顔で黙ってうつむいている。私がはいと言いましたと一言言ってくれれば済むのに、梶山が余り声を荒げているので言い出し損ねたのか、黙っている。
 だめな奴だな、と腹の中で軽蔑したが、かわいそうなので、仕方がない。私は不参加ということにした。それでオーストラリアに出かける機会を失した。
 最初にハワイに出かけたときは一度は行きたいと思っている人が多く、確か百六十人余という大部隊となって、大へんにぎやかな旅となった。
 こういう旅行で一番気をつけなければならないのは事故であって、必ず一人や二人故障者が出る。一行の中には大体何人か医者が混じっているのでよかったが、そうでなくて急場に間に合わないこともあった。
 私は全国のソ連抑留者の会長としてソ連政府(ソ連邦解体、現在はロシア共和国連邦)の内務省、外務省、軍事省、中央古文書館、軍事中央古文書館、軍事メモリアルなどの官庁と折衝するためにモスコウを訪ねている。もう二十回以上になると思うが、日本航空を利用している。全日空は飛んでいない。ロシアの飛行便はあるが、どうも安全性に信頼を寄せ難いだけでなく、過去に何回か乗ったが、物すごい量の荷物を機内に持ち込む人がいるし、食事も不味いので、二度と乗らないことにしている。
 小さい時からカメラをいじっていたし、今でも旅行となるとカメラを手から放さない。従って、窓際の席を取ることに心掛けているし、それもプロペラや翼の姿の近いところは避けるようにしている。
 飛行機からの撮影は天気が悪いと全然ダメである。羽田から選挙区へ往復すること二千回以上であるが、富士山が全然見えないことがある。歌の文句にあるように頭を雲の上に出し、とくに雪の積もっている山の頂が雲間に見えるときは本当にきれいであるし、二、三十枚もシャッターを切ることもある。
 アルプスの連峰がくっきりとみえることもあるし、山の名を知っていたらよいと思うが、山オンチの私にはどの山が何と言うのか全く分からないのは残念である。
 しかし、カメラを抱えていてよくわかるのは、何と日本は山地ばかりで平地が少ないのか、ということである。ヨーロッパもフランスの空のあたりを飛んでみるとよくわかるのは、じつに 平地が多いことである。フランスが農業国として、農産物を輸出する程生産しているのもよくわかる。
 日本の場合は、列島の山脈を巡ってヒラメの縁側のように狭い平地がつらなっているばかりで、僅か関東、近畿あたりに平野らしきものが見えるが、あとは川筋の帯のような平地である。
 その点、あきれるほど広いのはシベリアの平原である。本当はなかり凸凹があるのだろうと思うが、行けども行けども下の景色は変わらないことあきれるほどである。
 シベリア鉄道を往くに二十三日間、帰りも二十三日間かかってモスコウから一〇〇〇キロのエラブカの収容所を往復したわけであるが、とにかく広いことは広い。緯度がもっと低かったら、あんな寒い土地ではなく、人がもっと楽に住め、又、食べ物も作ったりできるのに、と思わないわけには行かなかった。
 もっとも、零下二十度までは戸外の作業はできたし、させられたから、やろうと思えばできないことではない、と思うが。
 ロシアの小説は学生のころに、私に限らず昔の学生は随分読んだし、又、立派な作品が多かったが、あの持久力と言うのか、ねばりというのかはあの寒さの中で長いこと先祖代々暮してきたことと無関係とは言えないような気がしている。
 それにしても、トルストイの家なども見たが実に立派な豪壮なものであって、あれも農奴制をとっていたこととは無縁ではないように思った。
 トルストイがあのような世界に住みつづけることに嫌悪して家出をしたと言うのもわからないではない。
 筆が滑って、飛行機から地上を見た話からシベリアの大地の話になって了ったが、毎年シベリアの上空を何時間も飛んでいると、いろいろな感慨が湧いてくるのである。
 そうだ、寒い平坦なところというとアラスカを思い出す。ジェット機で航続距離が延びる前は、羽田からアメリカ大陸やヨーロッパ大陸に一気に飛ぶことはできない為、必ずアンカレッジに給油のためにとまった。そのため、アンカレッジの空港はなかなか大きかったし、休憩の間にする買い物などのために立派な店も開いていた。その店の中でいろいろな人に会ったりした。
 いつだったか、日米の経済人会議がワシントンで開かれ、それに出席する東急の五島さんなどと空港のVIPルームでお会いして、スリーハンドレッドのゴルフ場の入会のことなど薦めてくれたことも思い出す。その年の四月一杯迄入会を申し込めば五〇〇万円だが、五月一日以降は、いくらだったか忘れたが、その何倍にもなるから、貧乏役人だった私の懐をよくご承知の彼は、ブラジルへ行くのでとても四月中には日本に戻れぬ私のために、手続きをしておいてくれる、という。そして、そのとおりしてくれたので、今でも私はそのままメンバーの一人となっている。五島さんももう亡くなって久しいが、御一緒に軽井沢のコースを回った時、私が一つの池に三つもボールをほうり込んだこととともに懐かしい思い出となっている。
 スリーハンドレッドのパターの練習場の近くに昇さんの胸像がずっと台の上に在りし日のままのお顔で乗っている。それを見る度にアンカレッジの邂逅を思い出すのである。あの人はゴルフもハンディ五で強かった。
 
 


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