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相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2015.06.12リリース |
第二百十二回 <ソ連抑留記> |
増田甲子男君のソ連邦抑留記を読んだ。彼とは既に解散したが大正会のメンバー仲間でもあった。ソ連抑留者がどんなに辛い目にあったか、については戦後七〇年に及ぶ今日までに数多くの手記が出されている。
私達、主として関東軍の将校が収容されていたタタール自治共和国エラブガの収容所の中から比較的早く帰国(一年余)した連中の書いた「ウラルを越えて」はベストセラーになったと聞いたが、そのような手記はソ連邦抑留中の苦難をよく傳えている、増田君の本も実に詳細に、リアルに収容所生活をよく傳えているので、私も一気に読んだ。 終戦時、中国は無論のこと、フィリッピン、タイ、インドネシア、マレーシア、ビルマなど東南亜の各地に何百万人の日本人将兵が駐屯してたし、又、硫黄島などにおいても多くの死傷者を出したことは、私が今更言うまでもないことである。これらの人が戦後あらかた抑留者となって苦労されたことと思う。ポツダム宣言によってあらかた早く本国に帰還しえたのであるが、ひとり、ソ連邦だけは、日本の状況につけ込んで不可侵条約を一方的に破って侵入してきたばかりか、満洲、北朝鮮、樺太、千島の部隊を内地に送るどころか、逆にシベリア奥深く運んで、極寒の地で、極悪な給与のもと強制労働に服せしめて、約一割六万人の死者を出したのである。 ソビエト軍は日露戦争の復讐だとか、叫んでいたのをよく聞いた。私達は、何を言っているんだ。ソビエトはプロレタリアート(工場労働者)とクリスチャンヌイ(農民)の敵であるロマノフ王朝を革命によって倒したと誇示していたではないか。ならば、戦争によって、ロマノフ王朝の倒壊を早めた日本はソビエトに感謝されてしかるべきものであって、復讐などとはとんでもないと言い返してやった。 いずれにしても、シベリアの生活条件は最低であった。よく承知しているが二千万人もの死者を出したと言われているソビエトの被害は本当にひどかった、と思う。われわれのいたタタールの田舎町も年寄と女、子供ばかりで、兵隊を除いて若い男の五体健全なのは殆んど見かけなかったことをもってしても、その惨状はよくわかるが、その穴埋めに日本軍将兵を六十万人も拉致して行ったのではないか、である。 毎年モスコウと東京で開いていたシンポジュウムでは日本の将兵は捕虜だというソビエト側の論客に対して激しい言い合いをしたことを思い出す。一日そのことをめぐってやり合ったこともある。果は、もう天皇が戦いを止めよと言ったので止めたのであって、もし、本当に戦争中であるなら陸伏などするものか、最後の一兵になるまで戦ったに違いない、とやり返していた。 ソ連の民衆の生活も困っていたことはよくわかっていた。粗末な服に粗末な食物で我慢をしていたのだと思う。収容所の周辺の雪の上で遊んでいる子供たちが、大きな声で、今度生まれたら捕虜になるんだ、など叫んでいるのを再三聞いた。捕虜が砂糖などを配給で貰っているのを知っていたらしい。 それにしても寒さは耐えた。ソ連の兵隊は小さい頃からこの気象に馴れているせいもあろうかと思うが、外套の下は夏服みたいなもので、別に寒そうな顔もしていなかった。食べ物のノルマはキチッと決められていたが、問題は、なかなかそのドキュメントの通りに配給されない(例えば、肉とあっても骨ばかり)ほかに、問題は横流しであった。とくに最初の頃、われわれの先人としてラーゲルに住みついていたドイツ人は心身ともにたくましい上に、われわれ新まいの不慣れに乗じて糧料の横流しをしていたことは明らかであった。後日、そのことがバレて、収容所の管理局長少将閣下がトタンの中佐に格下げとなり、中央アジアの方へぶっ飛ばされた(噂)と聞いたりした。 ラボータは農場の作業などまともにやったかなりの負担になったかも知れないが、スコップで掘り返す時も掘った土を前に倒して土の色をみせる(俗に下駄をはかす)ラボータの量は半分以下で済む便法を使ったり、とにかくやったふりをして、あとは、ひっくり返って、空を眺めてあゝ腹がへったなど言って休んでいるうちに所定の時間が来る、というサボタージュをやったりしていた。コンボイは何も言わなかった。種暮や人参などはそのまゝ齧ったりもした。さつまいもは生でもうまいが、じゃがいものの生はとてもまずかった、背に腹はかえられぬとばかり、これも生で齧った。蛇やねずみなどを食べるものもいたが、われわれはとても出来なかった。 伐本隊などでキャンプの外へ出かけるラボータは場所によっては歓迎されていて、柵のない分だけ地元の民間人と自由に交流をしたり、何か食べるものを仕込んだりしていたようであった。 私は、中支にいた時の仕事について官名詐様も含めて、大へんな誤解を受け、監獄に四ヵ月もほうり込まれていたこともあって、所外作業には絶対に出して貰えなかった。 所外作業は伐木など肉体的にきついものであったが、ノマル以外の食事にありつけることもあったし、そこはかとない住人との交流もあって一時の息抜きもできたりしたと聞いている。 抑留されている日本の将兵はただ帰りたい一心からダモイトーキョーが念佛のように頭から離れなかったが、ドイツやハンガリーなどの捕虜は過去においてもそういう体験をしていて、歴史的に受けつがれているせいか、われわれよりも馴れていて、捕虜の環境を少しでも快適になるように努力をしているように見えた。例えば服装も軍服を仕立てなおしたり、ちょっとした飾物を作ってみたり、所内を走っている有線のアンテナにひっかけて聴けるラジオを作ったり、又、ヴァイオリンなどの楽器も作ってコンサートをしてみたりしていた。 日本の、われわれの仲間も少しづつ早く帰ることの諦めを感じるとともに日々の生活を楽しむ工夫をするようになった。碁、将棋、マージャンのような道具も丁寧に細工する者もあって、暇さえあれば楽しんでいた。マージャンの一鳥なども見事に真似して彫ったものができていた。ただ本パイと違って軽いので積み上げた山が崩れ易いという難点があったし、パイを使っていると手坧で汚れ、その汚れ方でパイがわかり易くなるという欠点もあったが、いたし方なかった。 演劇中隊も作って新派の婦系図の舞台も上演したが、満洲から後生大事に抱えて来たワイフの着物が役に立ったり、楽器も少しづつ揃えて軽い音楽をながすことができるようになった。壁新聞も盛んになって、回覧紙も作ったし、何だ彼だ文句を言いながら、灰色の日々を少しでも明るく楽しめるような努力をするようになった。 将校集団の収容所でモスコウ直轄と言われていたが、そんなこともあったせいか、後々聞いたシベリアの収容所よりはましな生活環境であった、と思う。それにエラブガの収容所はA・B両ラーゲルに分かれていたが、それぞれ五千人ぐれいの抑留者のうち佐官組が四、五百人であとは少数の例外を除いて全員将校で、しかも学徒動員のものが過半数を占めていたから、シベリアの一部の収容所のように班長や上級者が旧軍の状態のような暴力やいばり方を見せつけるというようなことは皆無であった。 次第に学生の時の寮のような雰囲気も出来て来たし、演劇を観るほか、野球をやったり、ロシア民謡の合唱の練習をやったりした。 こんなことばかり書くと収容所生活を楽しんでいたようにも受けとられるが、そんなことではなく、暗い日々の生活のなかから少しでも明るいものを見出そうとする努力と思って貰いたい。それに、何よりも、大部分のものは若かった。 一番に悩んだのは、一体いつ日本に送還してくれるか、ということで、向うの係官の言う「スコーロ・ダモイ」(もうじき帰国)は聞き飽きた。本当に帰国させるのか、させないのか、させるとしたらいつか。そこに本当の質問があった。 懐しの日本は焼土と化しているという。それだけに早く帰って、本当の日本の姿を見たいのである。 スコーロ・ダモイ。 私の回りには陸土の連中が少なからずいた。私は、彼等に言った。もう日本の軍隊は崩壊してしまった。君等の陸軍士官学校卒という資格はもう何の意味も役割もない。だから、帰国できたら、何はともあれ大学に入り直した方がよい。それには入試がある。米国が占領しているからなおさら入試には英語の学力が必要だ。英語の塾を開くから、不足ながら私が先生になると。 ソビエトでは、子供の学校で英語の初歩を教えていて、その教科書がいくらも日曜のバザールで売っている。それを買って来て、ポツポツと英語の授業をはじめた。ピンとこなくて不熱心のものが多かったが、彼等の多くは帰国するや事情がわかって、大学へ入学した。後に日商会頭となった山口信夫君が一橋大学に入ったなどもその一例である。 抑留が得難いいい経験になったなど言うが、負け惜しみに過ぎない、と私は思っている。しかし、大抵の人は人生において最低の生活を体験したことは明らかである。どんな、辛いことがあっても、あの経験に比べればましである、乗り越えられないことはない、と思った人は多いと思う。そういう意味では強くなって帰国したと思う。だからと言ってソ連に、ロシアに感謝などしない。 われわれは飽くまでも、日ソ不可侵条約を破り、ポツダム宣言の署名国でありながらそれに違反したことを謝罪し、又、強制抑留問の労働賃金などを補償するべきことをソ連(今はロシア)に要求することを止めないのである。 大体、ソ連のしたことは火事場泥棒を働らいたに等しい。北方四島は日本のものであり、ソ連は戦争が終わってから攻めて来た。満洲なども同じである。国際社会に正義と言うものが存在するとすれば、当然ロシアは四島を返すべきものである。 抑留者の年令は若くとも九十を超すようになった。もう何年も持たないだろう。政府はもっと真剣にこの問題の解決に対応して貰いたい。 |