back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.06.03リリース

第二百九回 <受験のこと>
 人生は試験の連続ではないか、と思った時期もあったが、この年にまでなると、少なくとも鉛筆をもって紙に向うような試験とは全く縁がなくなった。しかし、人生実質試験の連続であることには変わりがないかもしれない、と思うことがある。
 小学校は義務教育だから入学試験はなかった。当たり前である。中学は神奈川県立横浜第一中学校を受けた。多分競争率は二倍くらいだったと思う。
 父親が珍しく笑顔で、お前は五番で合格したんだと言う。どこかで聞いて来たのだろう。父は東京高師の卒業生であったから先生仲間もあちこちにいたので、どこからか知らされたのだ、と思う。もっとも、この中学は毎学年四クラスの生徒を一番から成績順に並べ、一番が一組、二番は二組の組長にし、五番は四組の副組長、六番は三組の副組長とできるだけ公平に配分するようになっていた。私は、四組の副組長になった。八番までは、成績を全校に公表したようなものであった。
 一年の成績は八番(従って二年生は一組の副組長)二年の成績は十三番(従って組長から外された)、三年の成績は二番、四年の成績は一番(というより渡辺勝君が一番で四修で一高へ入学したから)。四年で一高を受けて落ち、五年で合格、一高に入った時は文甲九〇人のうち中頃でクラスは文二であった。東大法学部政治学科は成績はわからない。
 大学一年の成績は七科目受けて優は一つ、あとは良、二年は優が四つ良が二つ、三年合計で二十二科目、優が一〇、良が一二だった。
 高文行政科は三千人受けて三〇〇人ぐらい合格、うち私が四七番(ちょっと不たしか)、司法は二千人受けて二〇〇人が合格、うち一三番。
 司法は思いがけなくよかった。法律科でなかったのに、この成績はわれながらよくやったと思う。ひょっとしたら、時代のせいで新たに受験科目となった国史の試験で、試験開始のベルがなるまで開いて見ていた教科書の○〇天皇(忘れた)の事蹟が、本をパッタリ閉めたら、試験問題となって出ていたというラッキーな出来ごとが作用していたかもしれない。試験なんてそんなもんだ、と思う。
 一高を四修で受けて滑ったから、一層数学を熱心に勉強するようにした。代数と幾何であったが、両方とも三千題ぐらいしか通常の受験本には上っていなかったと思う。それを全部やった。試験の本番で六つ出た問題のうち五つは知っていたもので、あった。英語や国語など他の科目はいくら一生懸命やってもなかなか百点はとれないが、数学は0点もある代りに百点もとり易い、と思ったから、数学を一番重点に勉強した。
 一高と東大を通じて六年間中学生の家庭教師をしてアルバイト代をかせいでいた。教えていたのは数学が主であった。国語や英語は先生も予習が必要であったが、数学は必要なかったし、もし解けない問題にぶっかったら、家に持って帰って、あとでとり組めばいいからであった。
 大学の三年、高文の試験のあと大蔵省の入省試験があった。
 今でも覚えている。坂田泰二秘書課長が予備面接で、書類を開けて見ながら、「君は成績が良くないね」と一言。ハッとしたが、確かに大学の試験は二十二科目で優が十しかなかったのだから、成績の良いのが並んで受けていた大蔵省入省受験者としては良くなかったと思う。その一番の原因は、大学に入って一年の時、法律の課目が面白くなかったので、経済原論とギリシャ哲学を熱心に勉強して、法律関係は余りやらなかったからである。
 当時、私は一橋大学教授の杉村廣蔵氏の「経済倫理」の考え方に興味をもって経済原論の勉強を始めていた。
 イギリスのバートンの経理原論、その源にある新カント派の哲学、その元のカントの哲学、ギリシャ哲学の研究に打ち込んでいた。プラトンの著書をギリシャ語で読むことも始めていた。
 法律の勉強は当然お留守になる。その酬いは一年の試験成績となって表われて来た。まさか、これほどまでと思っていなかった私は愕然として、経済原論もギリシャ哲学もぶんなげて、法律書に没頭することになったのである。一年間、寸時も惜しんで勉強をした。
 振り返ってみれば、学生時代、本当に必死で勉強したのは中学の四年、五年の二ヶ年、大学の二年の一ヶ年に過ぎなかったような気がする。
 あとは何をしていたか。小説を読むのと運動であった。
 高文の試験に合格すればまず海軍の短現の試験は合格すると言われていた。通常は陸軍に召集されると初年兵からの辛い訓練が待っている。海軍の短期現役の道を選べば、四ヶ月訓練で主計中尉になって、恰好のいい短剣をぶら下げることもできる。大学卒業予定者は殆んどその道を志望したので、私も受験したが、眼で落とされたのである。
 お国に盡す道はいろいろあるから、しっかりやるようにと試験管に慰められて築地の試験場の門を出た私は、がっかりしてトボトボと銀座に向い、白十字(レコード屋)に入った。
 何枚かレコードを聞いているうち、ツアラレアンダーの「ハイマート」と言う曲が気に入ったので、それを買って家路についた。
 彼女の声はこのハイマートの曲にピッタリで、私は、何べんも覚えるまで繰り返し聞いた。
 米軍の空襲で横浜の自宅とともに凡てを失った私は、無論このレコードもなくなったが、戦後再びCDを買い求めて、今でも変らぬ彼女の声を聞いている。
 ともあれ、海軍の短現の試験に落ちた私は、半年繰り上げで、昭和十七年十月一日東部第十七部隊(近衛師団輜重兵連隊に初年兵として入隊した。
 さて、今度は経理部の試験である。部屋に本を持ち込んで、毎晩のように点呼後は自習室に入っては、大ぴらにタバコを飲んで適当に参考書を読んでいた。
 幸いこの試験に合格し、経理部甲種幹部候補生になり、東部第二部隊(近衛兵第一連隊)で集合教育、そこで終って国分寺の陸軍経理学校幹部候補生隊に入隊した。
 甲幹の試験は東部第十七部隊からも沢山の初年兵が受けたが、どうも連隊経理室に勤務していた甲幹の先輩から聞くと連隊で私がトップの成績であったという。未だ高文受験の余力が残っていたのかな、と思った。
 もうこれで試験は終わりかと思っていたのは間違いで約半年間の経理学校での勉強が残っていた。
 国分寺にあるこの学校は陸軍士官学校とも比べられるくらいの厳しさで知られていた。経理部の将校としての最低必要な基礎知識を詰め込むために日夜教育が行われていた。もっとも、卒業して配属先で役に立ったかと問われれば、余りはっきりイエスとも言いかねるのは、わかって貰えると思う。
 学校での成績はよくわからないが、東部第六十二部隊(歩兵第一連隊補充隊)経理室に配属後、昭和十九年五月北支方面軍司令部に転属を命じられた。二十数名の同窓見習士官の指揮者に命じられたところをみると、私の成績もそう悪いものではなかったのだろう。その一団が北京に到着後、隷下各部隊に配属になった際、私ともう一人が司令部経理部部員に命じられたことをみれば、成績はよかったのだろう。
 もっとも、試験の形の試験はこれで終わりになった。
 その後、私は、南京の支那派遺総軍司令部経理部に出向、そこから更に武漢防衛軍司令部経理部、そこから更に歩兵第十二旅団司令部経理勤務班長に出向。その間武漢防衛軍(軍隊区分)は第三十四軍として正式な編成に入ったので、私の身分も北支方面軍から第三十四軍に転属になった。
 その間、余り転々とさせられるも嫌であったし、法務部の身深少佐から法務将校が不足している上資格者がいないので、法務将校に転科しないが、と誘われたのでお願いしますといったところ、早速、陸軍省から主計少尉を法務少尉に任命するという辞令が届いた。
 しかし、その頃、私は、経理部のいわゆる庶務将校として経理部長の副官のような仕事をしていたので、岩上高級部員から、辞令の写しを見せられ、経理部としては転科を断るが、よろしいか、と言われた。面と向かって転科したいと言えばよかったのに、何だか経理部を嫌って出ていくように思われるのもどうか、というような気がして、お委せしますと言ったので、この件はないことになって了った。
 あれを受けて、法務の将校になっていたらどうなっていたかな、と思うことがある。戦後法務の将校のなかで戦犯客疑で追及されるものもいたことを考えると、転科しないでよかったのかな、とも思うし、転科して第三十四年司令部にいれば、戦後ソ連邦に抑留されるようなこともなかったのではないか、と思ったりしている。人生はわからないものである。
 昭和二十年六月、第三十四軍司令部の北朝移駐に伴ない、私は調弁科の仲間に別れを告げた。調弁科の人達は組織もろとも第三十四軍司令部から上級軍である第六方面軍司令部に移ることとなった。業務の体制を崩さないで、引き継ぐためにそうしたと思う。何故、調兵科の将校の中で私一人が第三十四軍司令部と行動を伴にすることになったか、は説明を受けたわけでもないので、未だよくわからない。ただ、私の家内一家が北京に住んでいる(父が華北交通の理事、後に徐州鉄路局長)ことから私が希望したと見られている。その辺のことは酒席で冗談まじりに話すこともあった、それを上司が覚えていてくれたものかとも思う。
 そのお蔭で、私は、僅か二、三日のことであるが家内と逢瀬を楽しむことができたが、かんがえてみれば、調弁科に残っていれば、ソ連に抑留されることもなく、二十年中か、遅くとも二十二年の初めの頃には内地へ引き揚げてこれたと思うので、逆に悪い籤を引いたとも考えられるのである。人生、何が、どうでるかわからない例かもしれない。
 いずれにしても、昭和二十三年八月十四日丁度終戦の日以来満三年目にウラジォストックから舞鶴に上陸した。
 大蔵省へは、間もなく復帰をし、働くこととなった。行方不明と名簿に記されていた私は同期二十七人のうち、一番最後に帰国を果たしたのである。
 あゝ、もうこれで試験などと言うものは縁が切れたと思っていたら、やはりまだハードルはいくつかあったのである。
 その一つ。
 昭和二十四年十二月何日か末頃、私は、偶然文部省の前を通ったら米国留学試験のポスターが掲がっていた。みれば、その日が申込み〆切り日であった。米国には一度は留学してみたいと思っていたので、文部省に駆け込んで、担当係に聞いたら、必要書類はあと回しにしても、とにかく申し込みだけはしてみたら、とお役所の人間にしては随分と親切であった。
 運がいいことに、そのG1ビルによる留学試験は六千人もの受験者があって合格者一二〇人(後に、若干追加)という難関であったが、私も合格することができた。
 その当時、私は主計局で逓信係担当の主査をしていたが、留学となると少なくとも一年は予算の仕事につくことはできない。上司の吉岡主計官は官房秘書課長に栄転していたが、米国へ出かけるまで秘書課で顔を売っておいた方がよいという親切な計らいで、秘書課の筆頭補佐にしてくれた。木野君が次席の補佐であった。
 ここでは、あちこち課長の指示で廊下トンビをしていればよいと思っていたら、突序としてGHQの命令で本省の課長職担当以上のポストに任命されるには、人事院の定める試験をパスする必要がある、ということになった。
 さあ大へんである。偉い人ほどおよそ試験などとは縁がなくなっている。しかし、答案は、昔のように文章を書くのではなく、何て言うのか、五択式で、正しいと思う番号に印をつけるという方式である。
 何とか試験自体を止めさせられないか、といろいろ相談をしたが、何せ昔から「泣く子と地頭」という、GHQは地頭以上であって、一ペン言ったことはなかなか直してくれない。そもそも、人事院なるものが、いわば、GHQの申し子であるし、フーバーなる担当課長はもと同姓の大統領の何かになる人で、マックアーサーの部屋にノックなしで入れる三人のうちの一人だという噂であった。
 仕方ない。この前代末聞の試験の対策に取り組むことになった。試験の結果は、成績順にポストにつけて行くというものであった。不合格となれば、局長にも、課長にもなれないどころか、現職であれば降格しなければならない。
 さあ、大へん。とにかくできるだけ現職がその地位を失なうことのないようにしようというのだから、GHQが試験をしようと言う目的に抵抗することになる。それだから面倒であった。
 このことを詳しく書くことは止める。というのもこの課長以上の試験はこの時一回実施されただけであったからである。しかし、課長、局長で何人も失職した人もいたし、成績の上の人のところを一人一人訪ねて、新ポストの辞令と辞退書の両方をもって歩いたのは、われわれ秘書課員であったからである。中には、辞退しないという人もいて、表向き余り強く言うこともまずい、というので、いささか苦労もした。
 役所在籍中は実際はしよつ中試験をされているようなものであるが、それはどこの社会でも当たり前である。
 主計局がらみの人事は割と厳しかった。主計局勤務の希望者は少なくなかったが、一年か二年主査をやらせてみてあまり適していないと思えば、遠慮なく転出をさせた、そうなると主計局をいわば落第したことになって、あとあと損をするようになりかねないので、必ずしも主計局を希望する人ばかりではなかった。
 昭和四十九年夏事務次官で大蔵省を退職してから、衆議院議員の選挙に出ることになった。それから約三十年はいわば総力戦の戦いをやって来た。
 戦前の高文司法科の試験に合格すれば弁護士にも直ぐなれたのに、戦後、GHQの指示があって、二年間の司法研修所での研修を受けなければ弁護士になれない、と制度が改正された。法務、検察関係に五年以上すれば研修が免除されているのだから、司法試験に合格して立法府である議員に五年以上在職すれば研修を免除しても差し支えないではないか、という声が高くなって、法律改正の運動をおこしたが、弁護士会の強い反対にあって、その法律を成立させるのに二十年近くかかった。
 私は、その第一回の短い(一月余)の研修に参加、終了し弁護士登録をすることができたので、早速、東京第一弁護士会に登録し、事務所を開くことができた。
 もうこれで、わが人生も恰好ついた試験で苦労をすることはないだろうと思っている。
 
 


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