back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.05.19リリース

第二百五回 <日本語と日本人>
 表題の本は司島遼太郎の対談集である。まだ読み終えていないが、いくつか感じたことを書いてみた。素人の意見である。余り気にしないで読んでください。
 私は、根っからの関東の人間である。お寺の過古帳にあったそうであるが(そのものは今次の戦災で焼けたという)、相沢家は鎌倉幕府の創設された頃三浦氏の一族(郎党かも知れない)であったが、源家三代にして北条氏に亡ぼされた時に大小を捨てて武蔵国の高田村にもぐって今日に至ったという。その後、一部は伊達候について宮城に移った。それまで伊達家の紋、竹に雀をわが家も使っていたが、武蔵に残った一族は、伊達候におそれ多いと紋を現在の「五環に丸に違い鷹羽」に変更したという。五環は、当時相沢家に有力な家が五軒あったので五つの環をつけたのだと聞いた。徳川家康が豊臣秀吉から関八州を貰って東国に下って来た時に武蔵の国境で出迎えた七人の大庄屋の一人が相沢吉左衛門であった、という。言い伝えを私も耳で聞いたので余り当にならないかもしれないが。
 相沢の一部は新潟に移り、宮城と新潟からその一部が、多分屯田兵が何かで明治の御維新後北海道に移ったとか。それで相澤の名は神奈川、宮城、新潟と北海道で大体つくしているようである。
 他の県に合沢、会沢、逢沢などという姓は少しある。もとは同根であるという説もあるが、関係はないという話もある。私が選挙に出た鳥取県には三軒相沢姓があったが、三軒とも他の県から移って来ている家であるという。
 相沢姓で余り有名な人はなく、三浦半島の辺から相沢重明という社会党の参議院議員、横浜から相沢巌という百米のオリンピック選手(その人の父は私の父の友人であった)、陸軍の軍務局長をしていた永田鉄山を刺殺した相沢中佐が名を知られていたぐらいである。相沢中佐の事件はかなり世間をゆさぶったもので、当時、私の家あてに来る封書は凡て開封され、その旨を判で押されていたことを覚えている(私の中学生の終わりの頃ではなかったか)。
 相沢の地名も今でもあちこちにあり、横浜の西竹の丸にいた頃は、近所に焼場があって、そこへの手紙が時々自宅に舞い込んでくる、何か母がぶつぶつ言っていたことを思い出す。
 この文章は雑談風に書いているので、その積りで読んでいただきたい。
 私は、大蔵省にいる間二十年以上予算の仕事をしていたので、外国との折衝を主にしていた人と比べて外国へ出かける機会が少なかったので、正直いってそれ程外国を歩いていない。
 一番長かったのが昭和十二年夏のバンコックのエカフエの会への出席を中心として東南アジアへ一ヶ月、翌年米国、英国、仏国、独乙などを中心とした予算編成制度の調査のための出張のまま二ヵ月ぐらいなもので、あとは、さあ、いくつか数えて見ようか。
 原子力発電施設で約二週間、南アのアパルトヘイト調査からみで二週間、ライン川下りで一週間、南アフリカに一週間、予算委で米欧など十日間、全まきでフィンランドなど一週間、エジプトのルクソールに高円宮記念碑除幕式で一週間、大蔵大臣代理でブラジルに一週間、予算関係懇談で米国へ一週間、初当選後台湾、中国へそれぞれ一週間、河野氏などと中国一週間、ソ連は全部で二十五回で、それぞれ約一週間ぐらい。スペイン、ポルトガルへ一週間、ギリシャへ一週間、東南亜一週間(青年協力隊)、外務委員長としてポーランド、ハンガリーなど東欧へ一週間、リビア調査で一週間、などであろうか。
 若くて体力もある中にもっと他の国々も精力的に回るべきだったと後悔しているが、もう及ばないのは残念でならない。
 いろいろな国を歩いて感じることは、英語がいよいよ世界の共通語になっていることと後進国がいろいろな面、とくに経済力で追い上げてきていること、各国は仲よくなりつつあるが、やはり国と国との対立は決して簡単に片づかないことなどである。そして着実に民主化は進行しているものの逆に強制体制を強化している国も厳然として存在していることなどである。
 だいぶ前から日本人はどのようにして成り立って来たのか、興味をもって、時々そのような表題の本を買って見ていたりしているが、正直なところ未だに確信をもてる説明に出遭っていないような気がする。
 地図を見れば一目にして「東海の孤島」であることはわかるし、大陸にも近いし、結局、北からも、南からも、西からも、又太平洋の広い海を渡って東からもいろいろな人間が流れついたであろうし、それらの民族(といえるかどうか)の混合的存在がこの島に住みつくようになったであろうことは、容易に想像しうる。
 記憶違いであったらお許し願いたいが、昔一高生の頃国語担任の次田潤先生が古事記の解説を授業の中でなさったことを覚えている。南方から流れついた人々と大陸(直ぐ向いは朝鮮)の人々とは仲が悪くことごとく対立をしていたのを何とか宥和させようとして、南方族の主、天照大神を姉とし、大陸からの、いわゆる出雲族の主素戔鳴尊を弟としたという解説であったと思う。それを聞いた時は、本当に何だか世界が開けたような思いがした。うまく話を作ったものだという気もした。
 後年、私が鳥取県から衆議院議員に立候補するため、米子に居を構えるようになってから、これらの話の中心地出雲に近いだけに又いろいろな話を聞くようになった。
 確かに、どうみても、日本人はもともと単一の民族ではなく、あちらこちらこの島に流れついた人達から自然発生的に長いことかかって作られた民族である、という気がする。
 日本人は単一民族であると言って叱られた総理もいる。やかましく言えば、そうかも知れないが、アイヌやコロボックルとか、いくつかの民族が混って存在をして来たのかも知れないが、いささか観光用に見物させられている感のあるアイヌ族を除いて、日本人を何種類かの民族に分類するようなことは、実際問題としても無理ではないか、と思っている。
 私も長いこと生きて来たので、いろいろな友達を持っている。他国籍の人は別として日本人の中に外国人と見まちがうような風貌の人もいないではない。
 かつて水田大蔵大臣だったか、パリでの会議に出席された際、あの日本語の上手な外国人は誰か、と竹内君を指して質問したという噂が残っているくらい、日本人にも外国人に似ている人もいる。笑い話で済んでいるから別に問題とはなっていないが。
 戦後、不法にもわれわれ関東軍の将兵六十万人は日本に送還されることなく、終戦後、シベリアその他に送られて強制労働に服せしめられた。
 私は、調査を受ける為、エラブガの本隊と分離して、カザンに近いジェネド・ドリスクの病院に送られた。
 そこは、ドイツが一番多かったが、ルーマニア、ハンガリー、イタリア、チェコ・スロヴァキア、など十数ヶ国の将校が混然として入院していた。
 時は、雪の深い二月からヴォルガの氷も融ける頃になって、晴れた日は庭に白衣で歩く将校で一杯になっていた。何が何だか、何国人かさっぱりわからないし、お互いに使う言葉はロシア語が一応共通語になってはいたものの、しゃべれない人も多い。
 中にハンガリー人のマノ・マニエルという将校がいた。ユダヤ人であると自分で名のっていたが、捕虜となって覚えたというロシア語もさることながら、母国語は勿論だと思うが、英語、ドイツ語も結構上手であった。春の光を浴びながら、小さな池の回りに座って、いろいろな話をした。彼は、エジプトに興味を持っていて、ピラミッドの謎について、長々と説明をしてくれた。古代エジプトは天文学などの学問も発達していて、ピラミッドも科学的に調べると、いろいろな秘められた啓示を示しているという。
 われわれは食事を除いては何もすることがない、彼の話を聞くのが、日課みたいになった。彼は夏目漱石の息子をよく知っているという。本当かしらと思ったが、否定する材料もない。
 何人も知っているわけではないが、大体ユダヤ人は他国語をよく覚えているという。これは私の乏しい経験からみても本当で、その最たる人はクロイツコルというエラブガ収容所の日本人部長(本当かどうか、わからない)であって、八ヶ国語を自由自在に話せると言う。取調でいろいろ尋ねられた時、あなたは英語をしゃべりますか、というからイエスと言うと、途端にあざやかな英語。ドイツ語は言うから、高校の第二外国語でと答えるとペラペラとドイツ語が飛んでくる。彼女は日本語、中国語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語、そして勿論ユダヤ語を話す。これで八ヶ国語。日本語の手紙を貰ったこともあるが、漢字まじりの上手な文章。あきれたね。
 収容所には大きな炊事場がある。そこに看視役みたいな看護婦が一人ついている。ナージャ、この人もユダヤ人。若いがドイツ語は上手、日本語もみる間に、いくらかわかるようになった。
 どうしてか、と考えてみた。日本人は外国語が不得意である。どうしてか。他民族に征服されて、その国の言葉をしゃべらざるをえないような目にあった国の人は、征服者の言葉を覚ええざるをえなくなる。
 絶えず征服されたかして、そういう国の人とつき合って行かざるをえない国民は外国語を早く上手になるのではないか、というのが私の説である。日本人が外国語に弱いのも、一ぺんしか、まだそのような経験がないからだ、と思えば、理解が行くでしょう。
 もっとも、例えば、日本語と英語の距離はドイツ語と英語との距離よりも大分長いからね。無理もないと思うね。言語構造上も差違が大きいと思う。
 私は、川端康成氏がノーベル賞を受賞した時、よくあの文章がわかるなァと思わず首をひねった。日本人でさえなかなか充分に理解出来ないところのある彼の文章を、例えば英語で訳したらどうなるだろう。サイデンケツカーが訳した本が出ている。と聞いたが、彼も苦労したのではないか。
 日本語に限らないだろうが、日本語は特に簡単にひっつけたり、略したりできるし、そういう言葉が多い。ちょっとうつかりしていると時代に取り残されるような気がする。いい悪いを言っても始まらないのかもしれないが、何だか放置しているのも少し心配である。
 この間読んだ本でも言われているように国字制限など、何で余計なことをしたのだろう。
 姓名などに使用可能な字も増えているようであるが、たしかに制限などなくした方がいいのかもしれない。漢字の難しい、何べん辞書をみても覚えられないような字を簡素化するのはいい、と思うが、原則は自由にすべきものだ、と思っている。
 しかし、今日に限らないが、姓はともかく「名」の読み方を全く勝手にするのはどうかと思う節がないでもない。自分にしか読めないような読み方にするのは、支障がないだろうか。
 
 


戻る