back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  
  2015.03.05リリース

第百九十六回 <北京>
 北京は私にとって最も懐しい街である。この街を思い出すと胸が痛む。僅か二ヶ月ぐらいの北支方面軍勤務であったが、あの深い緑に包まれた北京の街は忘れ難い。昭和十九年の五月初め、初めて汽車で北京に入った私達主計の見習士官仲間二十数名は戦地である筈の北京の街に未だかって軍用機の爆音を聞いたことがないと聞いて、驚くとともに有難い所があるものだと思った。
 外交部郊外のかつて米軍部隊の将校宿舎が日本軍の宿舎となっていた。宿舎に隣接して綺麗な五〇メータープールがあって、外人の若い娘たちが白日のもとに色とりどりの水着に包まれた白い肌をさらして水とたわむれていた。これでも戦地かと眼を疑う平穏な街の姿であった。
 丸いテーブルを囲んで朝食をとる。前の晩おいしい食事をとったことなどを話し合っているうちに迎えの車が来る。東四にある軍司令部に出勤である。もとは宗哲元の家だったというとてつもなく大きい家は朱塗りの城のような建物であった。経理部の経営科が私の配属先であったが、そこは建築課と言った方がわかり易い、軍の飛行場から宿舎の類に到る迄の建設関係を担当している課であって、入ったばかりの私は、仕事は先ず建設材料の名称を覚えることなどから始まった。戦斗部隊ではない、全くの官庁務めであった。
 北京の秋の空は、世界一と言われ、まことに美しい青の色であると言われていたが、春は黄塵のひどい日は太陽がうす汚れた黄色い空に包まれていた。
 戦前北京に遊んだ茶川竜之介は椋の都と評したという北京はたしかに溢れるばかりの緑の街であった。天安門から東西に走る長安街の道は本当に美しく、その緑の中で死ねたら、と思ったほどであった。
 奈良や京都でもそう思ったが、何といってもそこには歴史の重みがあった。ただ綺麗とか、美しいとか言う以前の重量感である。
 
 


戻る