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相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2015.02.27リリース |
第百九十四回 <山口淑子さん> |
「李香蘭」をご本人と共著した藤原作弥さんとは、彼が大蔵省詰の時事通信の記者をしている頃から親しくしていた。お互いに文学青年でもあることが知れて、毎週のように読んで良かった本を交換し合っていた。
満州で生まれ育った彼、はしなくも北支方面軍の司令部勤務の主計将校をふり出しに中支で軍の一線にいた私、生粋の日本人でありながら中国に住み、中国名で盛名を博した山口淑子さん。この三人を結ぶ糸はお互い戦時中大陸に暮らしていたことであろうか。亡妻の弟は北京中学で山口さんの弟さんと同級で親しくしていたとも聞いている。 山口さんの歌は「蘇州夜曲」にしても、「何日君再来」にしてもよく耳にし、よく習いもした。戦後三十余年ぶりに支那を訪れ、蘇州運河を船で流した私は、蘇州夜曲の歌と友に時に生死の境をさまよった戦場を偲び、秘かに涙する思いであった。まことに「何日君再来」であった。 山口さんが外交官大鷹大使夫人となり、又、押されて参議院議員となってから、選挙応援に鳥取県に駆けつけてくれた時のこと、彼女が飛行機が大嫌いであることがわかった。ではJRでいらっしゃい、ということで、新幹線で岡山、それから伯備線で米子というルートを通ったが、伯備線はカーブのスピードを落とさないように振り子式となっている。山口さんはこれで揺すられたから、もう嫌だという。車で岡山まで送った。そんなことも思い出す。 似たような運命を辿った川島芳子さんは同じ「よしこ」ながら、川島浪速の養女であることの証明が間に合わなくて死刑に処せられたが、同じく死刑を宣告された山口さんは間一髪戸籍が間に合って届けられて、一生を得た。 北京で銃殺された川島芳子の遺骸を引き取りに出むいた日本人の代表の一人に私の亡妻の父佐藤周一郎がいた。その形見にもらったコートを亡妻が着ていたことも何かの縁であろう。 そう言えば、「君がみ胸に抱かれて聞くは 夢の舟歌 鳥の歌 水の蘇州の 花散る春を惜しむか 柳がすすり泣く」と唱っていた親しかった戦友はとっくに亡くなった。 往時茫々。三人で語るチャンスは遂に来なかったが、藤原さんとはしんみり昔話の折もあろうかと、心待ちにしている。 |