back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.10.24リリース

第百八十七回 <中村真一郎>
 中村真一郎の小説「仮面の欲望」を何日がかけて読んだ。
 「女から男へ」として五一信、「男から女へ」として五二信の手紙の形をとっている。行かえが少なくて、表現が凝っているので、パーツと流し読みなど到底出来ない文章である。
 彼は、私が旧制一高(文甲)に入った時に二年上で、文芸部の委員をし、校友会雑誌に小説を書いていた。
 この期の芥川賞の小島信夫、フランス文学の川俣晃白や浅川淳、一年上の福永武彦、又一年下の加藤周一などが校友会雑誌に優れた作品を発表していた。
 「旧制一高の文学」という稲垣眞美の著書がある。これによると校友会雑誌は明治二十三年(一八九〇年の創刊である。
 一高の前身、大学予備門には尾崎紅葉、山田美妙、坪内逍遙、夏目漱石、正岡子規がいたし、校友会雑誌が発刊されてからは大町桂月、上田敏、萩原井泉水、尾上柴舟、川田順、塩谷温、阿部次郎、安倍能成、土屋文明、上田敏、谷崎潤一郎、茶川龍之助、菊池寛、久米正雄、倉田百三、谷川徹三、三木清、芹澤光治良、川端康成、池谷信三郎、村山知義、堀辰雄、深田久弥、高見順、中島敦、立原道造、杉浦民平などはいずれも校友会雑誌に書いていた。
 ふり返ってみると、一高が本郷から駒場の新墾の丘に引っ越して来たのは、私が入学する前の年に二・二・六事件があり、十二年に日支事変が始まった頃で、世は滔々として暴支膺懲、鬼畜米英打倒というような旗印の基に大陸に戦線を拡大しつつあった頃であった。一高の学園内は一高自由主義と称して、世論の一辺倒の流れに対しては、いわば平然とし、反軍とは言わないが、批判的な空気が強かった。
 ヒットラーユーゲントが訪ねて来た時、正門の付近で歩調をとって入ってくる制服の一隊に向って、誰言うともなく「バカヤロー」という罵声をもって歓迎した(?)というのが、後日問題となったことを思い出す。
 しかし、その頃はまだよかった。渋谷や銀座も青い灯、赤い灯、飲んで歩くに事を欠かなかった。ビアホールで一杯飲んでは、行列の後についた、という、今からは考えられないような街の姿は、も少し経ってからであった。
 私は、一高卒業後のことについては、大学卒業と同時に兵役、終戦後ソ連抑留、帰って直ぐ大蔵省に復帰、ここを卒業して衆議院議員という経緯を辿ったので、絶えず文学には関心を持っていたものの、旧制一高の消減とともに大学の文芸活動とも無論縁が切れている。
 中村真一郎は藤江治(夕食の意)のペンネームを使っていた。その由来は承知していない。
 一高在学中は、といって重なったのは一年間だけで、彼の名を良く承知しているに過ぎなかったが、戦後、私が軽井沢に出かけるのを年中行事のようにすることになって何度かお会いし、同窓の故をもって御夫人ともども話合う機会を持ったことは嬉しかった。
 氏は無論小説家であるが、いくつもの外国話もこなし、男女こきまぜて海外の知人も多く、何か、そういう言い方が当たっていれば、教養人であった。
 「仮面と欲望」は小説であるから、書かれていることの眞偽を問うような野暮なことは言わないが、仮に実話であると告白されてもそうかも知れない、と思うのは氏に会っての印象でもある。
 
 


戻る