back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.05.31リリース

第百八十二回 <アユタヤ日本人町の跡>
 バンコクからチャオプラヤー川に沿って車で一時間半ほど北上したアユタヤの遺跡を初めて訪れたのは一九五四年(昭和二十九年)夏であった。バンコクで開かれた国際会議に参加した時、間の休日であった。
 最大では現在のラオス、カンボヂア全域をも掌握していたアユタヤ王朝の都・アユタヤは一五〜一七世紀に海のシルクロードと呼ばれた交易路の中継点として栄えたという。そのアユタヤにはポルトガル、中国、ベトナムなどの外国人町が並んでいたというが、朱印船貿易が盛んだった鎖国以前の江戸時代、浪人や迫害を受けたキリスト教徒を中心として二千人を超える日本人がこの町に住んでいた。
 勇敢な日本人は兵士となり、都の守護で頭角を現わした。その中でも駿河出身の山田長政は貿易で成功し、強力な軍隊を率いて、当時のソンタム王の信頼は厚く、官使の最高位まで出世したと言う。
 子供の頃読んだ本では山田長政は王女を妻に貰ったと書いてあったと記憶している。実際どんな人だったかは分らないことが多いとも言われているが、とにかく彼や日本人町は、タイで暮す日本人の心のふるさとのような存在だと言われている。
 今でこそ、日本政府の援助を受けて、展示施設を整備し、朱印船や町の模型が並んでいると聞いているが、私が初めて訪れた頃は、アユタヤの町の遺跡を示す標識こそあったが、薄ぼけた赤い色をした鳥居が一つ原っぱにポッンと立っている程度の荒涼たる姿であった。
 そこから一寸離れた所の何か宮殿の跡らしい施設の中で晝飯を御馳走になったが、いくつかある窓の一つ一つにウエイターらしい人がついていて、長い幕をひっきりなしに動かしているのは、何のためなのかと思ったら、扇風機の代りに風を送っているのであった。そのことが、今でも忘れられない印象である。
 バンコクは水の都でもある。田の耕作に縦横に小船を使っていることを覚えている。
 バンコクの町の中には素晴らしい寺院ワット・プラケオのパゴダは金色に輝いていたが、かつてのアユタヤもそんな風に輝いていたのだろうか、と言われている。
 食べるものを食べなくても、後生を祈って熱心な仏教徒であるタイ人はあの金色の瓦一枚を奉納する、とも聞いたが、そうかも知れないと思った。
 も少し山田長政のことを調べて見たい、と思っている。
 
 


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