back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.03.10リリース

第百七十五回 <ロシア雜感>
 昭和二十年八月十五日終戦となってからわれわれ(第三十四軍司令部員)はソ連軍に武器、弾薬を初め一切の物質を引き継ぐ準備を始めていた。われわれは在留日本人が全員日本に引き揚げるまで鉄道沿線で警備の任に当り、その後引き揚げる、という協定になったという。
 私は経理部で被服、物品担当の主任将校というので、庬大な品目の在庫リストを作らなければならなかった。無論、やがて来るソ連軍に引き渡すためであった。
 第三十四軍は関東軍の隷下にあったが、八月六日に編成完結をしたばかりの新設軍で当陽にいた藤部隊(広島の師団)を中心とし二ヶ師団、一ヶ旅団の小さな軍であった。
 その勇を誇っていた関東軍の精鋭部隊のかなりの部分は南方へ出動していた。日ソ不可侵條約が守られることを信じ、愚かにもソ連軍はドイツとの戦いでとても東部に勢力を割くことは出来まいと思ってのことであろうが、あっさりとその期待は外れ、欧州戦線でドイツと激闘を演じた荒々しい部隊が鋼鉄の走る兵器に包まれて満州の野に突如侵入して来たのである。
 突如か。突如と言うのは、まことにお粗末極まる叫びであって、ソ連軍が日本の不可侵條約を破って、戦闘をしかけてくることは十分に想像しえたし、その微候も充分に見られたと言うではないか。
 軍の編成に当り、数々の物資と一緒にソ連軍の軍服八千着を準備するように言われた時に、ソ連と戦うことあるべしと覚悟していた筈であるのに、ソ連軍がしかけて来ないか、又はもう少し後だと思ったのか知らないが、とにかくソ連から正式に宣戦布告があった(ということは後で聞いた)にもかかわらず、何だか、戦いに向けてやる気が燃え上がるような関東軍の命令ではなかった。
 ソ連軍に抵抗しつつ後退して来い、というような命令では、誰が死を賭として戦うであろうか。
 最近、その断末魔の大本響の動きを書いた本を読んでいるが、兵を収める御聖断が下るまで、果てしないような和戦の議論が繰り返されたようにも傳えられている。
 国の運命がかかった最後の決断であるから、議論のあったのは当然である、と思っているが、初めの大事な時間を空費したために死んだ将兵はあたら貴い生命を無駄にしたのではないか、と思っている。
 それにしても八月初め編成を完結したと言っても、天幕や毛布を大連の貨物廠から受領に行くという段階であり(私が責任者)、牡丹江の重砲部隊が列車で到着したといっても一門につき弾丸が四発、馬も着いたが鞍もないので毛布を敷いて乗っているといったような情けない状態であった。
 スターリンは米国が原子爆弾を八月初旬に投下することを知っていて、とにかくそれで日本は降伏するだろうが、一日で半日でもその前に満州、北鮮、樺太、千島などに侵入しなければならないと焦りに焦って、叱糟励をしていたことをあとで知った。
 そんなグレハマなことを日本の首脳部がしたことを当時第一線にあるわれわれは知らなかったが、戦意はともかくとして、物量的にみて、とても長くは連合軍に対抗しえないことはわれわれにもわかっていた。
 二十年の正月、フィリッピンのマニラが陷落したというニュースが傳えられてきた。マックァーサーのアイ・シャル・リターンが嘘ではなくなったことを知ったあたりで、われわれはもうある程度の覚悟がいると思い始めていた。
 武漢地区にいたわれわれは、日々物価が高騰し、激しいインフレに悩まされていた。
 対日還送物資の調達に精魂を籠めていたわれわれに、東京から飛来した大本営の参謀が、ひそかに、軍の首脳部は敗戦を覚悟している、金に糸目をつけないから、買えるものは何でも買って日本へ送ってくれ、と言った。
 米、雑殻、屑鉄、非鉄、綿糸、綿布、油脂、皮革、本当に何でも買いまくった。収買のための現地通貨が不足して来たので、武漢地区で儲備銀行券を刷り、ダンスホールなどを再開した。阿片を蒙彊から運んで来たとの噂も聞いた。
 その頃、前線の二十軍、十一軍を揚子江下流に後退させる間、われわれ第三十四軍は武漢に籠城して、玉碎覚悟でこれを死守し、前線の二軍の後退を援護するという作戦を聞かされた。
 われわれ学徒出陣兵を中心とする司令部の将校連も、いもアルコールで作った合成酒を飲み米軍の爆撃で壊れた建物の中で作戦命令の筆を走らせていた。
 大本営通信という小部隊が軍司令部に置かれていた。大本営との直接の連絡用の無線回線であったが、通信兵は、大本営の景気づけした報道よりも米軍の短波放送をよく聞いて、われわれにも情報を提供してくれた。半信半疑ながら、われわれはある程度の情報はキャッチしていた。
 三月十日の米軍の東京大空襲も承知していた。
 漢口の街にもデマと含めていろいろな情報が流れていた。やがて漢口の街にも中国兵がやってくるのではないか。噂を呼んで、司令部で使っている中国人が一人、二人と姿を見せなくなった。若し、日本軍が負けていなくなったら、日本軍に雇われていた中国人はどのような眼に遭わされるかも知れない、と恐れていると言う。
 われわれの前に建物を使っていたイギリス系の銀行の時代から運転手をしていた中国人も辞めさせて欲しいと言って来た。聞けば、街には日本の敗戦のルーマーがもう流れているという、絶対にそうゆうことにはならない、と説得はしたものの、不安の色は眼から隠せなかった。
 日独防共協定が成立してから日本の友人らしく大きな顔をしていたドイツ人は、ドイツが降状したと聞くや、自転車につけていたハーゲン・クロイツの旗を早速外して、われわれを避けるようなふりをする。そんなものかなァと思った。
 そんな情勢で、われわれは急に六月末ハルビンに転進するという命令を受けた。玉碎覚悟の籠城から脱れることができるというので、六月下旬、中支と決別をした時は、思わずバンザイを叫んだ。
 ハルビンに行けば、ヨーロッパ風の街で、白系ロシアの美人にも遭えるなど思って楽しみにしていたわれわれに、本当の行く先は北鮮の咸興であると知らされた時は、一時にがっかりしたものである。
 咸興は何もない町で、炊事の薪さえも調達が大へんであった。
 それにしても、終戦後鉄道沿線で邦人の警固に当り、邦人が全部引き揚げたら、将兵を帰す、という約束と聞いていたのに、それが嘘っぱちであることは間もなく知らされた。
 定平の小学校か何かの校舎に閉ぢ籠められたわれわれは、初めは、ガソリンも搭載したトラックを何台も持っていたし、酒やタバコも当座の用は充分に運んでおいたのに、ソ連兵が来るや、とたんにあらゆる物資を押さえられてしまった。
 約束違反ではないかと軍の通訳を通じて抗議をしても、知らぬ、存ぜぬの兵隊相手では一向埒が開かない。
 そのうち、われわれを校庭に整列させたソ連兵はわれわれが持ち込んだ酒、タバコなど一切、腕時計なども全部よこせと言う始末。武器を持たないわれわれはどうしょうもない有様であった。
 もうこうなると司令部の幹部諸公も手の出しようがなかった。N大尉は足に捲いていた五千万円の小切手を奪われて了ったし、トラックも何時の間にやら姿を消して了った。
 われわれはすることもなく、酒もないまずい飯をボソボソと食べて寝るより他になかった。
 興南の港から汚い貨物船に乗せられて内地へ向うと言われた時はホッとしたが、それが又嘘で、ポシェト軍港に上陸、クラスキーノで一ヶ月の天幕での野営の後、シベリア鉄道を二十日余りの西行、クラスキーノという寒駅で下車。吹雪の中を丸四日間一〇〇キロの道を歩かされてエラブガのラーゲルに着いたのが、二十年十二月三十一日の夜であった。
 それから、ドイツの将校達との共同生活が始まるわけであるが、ラーゲル生活のもうかなり先輩の彼等からいいように扱われた。ソ連の管理部隊と組んで、糧秣の横流しなどの目に遭わされたわれわれは、ドイツ人を排除せよと時ならぬ日独戦争を始めてみたが、たわいなく破れた。
 そんなことがバレて、モスコウ直轄の管理局は局長以下肅清されて、大分よくなったが、とにかく北緯五十五度、例の南北樺太の境界線北緯五十度よりも北のエラブガの酷寒の冬の生活を三度送ることになったのである。
 ソ連が満州等占領地に在留した日本軍将兵六十万人をシベリアなどソ連領内に運び、労働に従事させた目的はやはりこの大戦でソ連が失った二千万人を超えるという労働力の穴埋めにあり、いわば賠償の一部として考えていたというのは、どうも事実のようである。従って、八月十五日の終戦後千名単位の作業大隊に編成して炭坑、土木、建築などの労働に従事させたのだが、それはスターリンの命令であり、八月十五日から十日も経たない二十四日に方針が決定したと言われている。
 いずれにしてもわれわれをソ連側は捕虜として取り扱い二年乃至三年の間労働に従事せしめたのである。
 その間全体の約一割が亡くなったが、大部分は営養失調やT・B、発疹チフクなどの病気によるものであった。
 六〇万と言われた抑留者であったが、年は争われないもので、終戦後七十年に近い今日生存している者の数は一割以下になって了った。今もなおわれわれの団体、全抑協としてはロシア側に強制労働に対する補償要求をしている。平和條約の締結がいつになるか、なかなか目途が立たないが、四島の問題と合せてこの問題は是非解決して貰わなければならないと思っている。十人や二十人の拉致問題とは桁違いに重要だという認識を持って貰いたいと思っている。
 
 


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