back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.03.04リリース

第百七十三回 <ゴルフ>
 略歴の趣味の一つにゴルフと挙げているが、初めてゴルフなるものの存在を知ったのは、小学生の頃で、近くに日本で一番古い根岸の競馬場があり、その中の広場を使ってゴルフのプレーが行われていたからである。別に関心もなかった。
 亡くなった家内は女学校の二、三年頃から知っていた。私のクラスメートの従妹であって、その弟の中学生の家庭教師となってもっぱら数学を教えていた。
 姉弟の父は国鉄の技師であり東大でトンネル工学を受け持っていたが、大学で剣道部の主将をしていた腕力を生かして、当時熱心にゴルフをしていた。確か、柏のカントリークラブに所属していたと聞いているが、シングルでジャパン・オープンにアマチュアで参加したこともあった。休みとなると重いクラブを肩にして帰ってくる姿をよく見かけた。
 私は、旧制一高に入学した時は、陸上競技部で汗を流していたが、半年余りで退部し、あとは寄宿寮の一般部屋にいて、気ままにテニスや野球をやっていた。
 大学に入ったときは戦争中で、卒業は半年繰り上げの学徒出陣で、北支、中支と転属し、所属していた第三十軍軍司令部が北鮮に移動し、終戦となり、ソ連に抑留三年ということになった。
 大蔵省に復帰してからも、もっぱら局対抗などの野球のピッチャーをしていた。その頃、ゴルフもクラス仲間などで盛んになりつつあったが、私はあんな動かない、チンケな球など打って何が面白いものか、と言って、目もくれなかった。もっとも、遅れて仲間入りするのも、なんとなく癪だなと、という気持ちがなかったといえば嘘になる。
 私は、当時主計局で予算査定で明け暮れしていたが、先輩であり遊び仲間でもある村上、鳩山、塩崎の三人は特にゴルフに熱心であった。村上先輩は私にゴルフを始めたらと何度言ってもおみこしを挙げないので、ある日自分の使っていたゴルフクラブ一式をもってきて、練習を始めたらいいという。
 その頃、東京でのオリンピック開催が決定し、代々木に国立競技場も完成した。私は、文部担当の主計官として計画に関与していたこともあり、競技場へは何べんも足を運んでいた。広い競技場だが、普段それを利用する団体がない。利用料による収入が見込めない。そこで、私のアイデアで空いている時はゴルフの練習場にすることになり、テストで村上氏から借用していたクラブを持って通うようになった。やってみるとなかなか面白い。しかし、所属するゴルフクラブはないし、コースに出る気もなかった。
 文部省担当の次は、農林省担当の主計官となった。夏、現地視察で関西に出張した時、滋賀県で琵琶湖カントリーを休日に回るという話になった。道具も何もかも借りてコースに出たら、最初のハーフが七十いくつ、次のハーフが六十いくつ、最後のハーフが五十いくつ。さぁ、面白くなった。こんな調子なら次のハーフは四十台だなといってみんなを笑わせたが、間もなくそれはとんでもないことだとわかるようになった。
 ともあれ、俄然ゴルフ党になって、千葉の京葉国際カントリーのクラブのメンバーになったのを手始めに、土日熱心にコースに通うようになった。
 法規課長の時、土曜日を休んでゴルフへ行った。今のように週休二日制ではない。法規課は国の財政に関係のある法律はもとより政令、省令の類まで各省庁から合議がある。課長の判をとりにくるのは土曜日。私はいない。となると後回しとなって書類は局長まで上がっていく。次官会議が月曜にあって、それに法令がかかるからである。あら、また相沢はいないな、と上司に思われるので、一計を案じて、金曜日までに書類は見て、鏡の一枚にべたべたと判をついたものを何枚か与けておくことにした。こうしておけば、ゴルフに行って休んだことがばれないですむ、ということになった。
 それより前、村上孝太郎局長がゴルフに取りつかれるように熱心になって、大箱根カントリークラブで主計局の幹部のゴルフ・コンペを催すことになった。
 さて、服装はどうしようと考えた。私にとっては初めてのコンペ参加である。今から考えると笑いたくなるが、全部茶一色で統一することにした。キャディバッグ、帽子、メガネの縁、手袋、シャツ、バンド、ズボン、靴、クラブのヘッドカヴァー、クラブの握りなど全てである。
 さて、ハンディ三十六でのデビューであったが、十八番までで百一叩いた。コースは七十三の設定であって、最後に八十ヤードぐらい残っていた。グリーンは見えない。下を向いて打った一打が、カップインしたことがわかった。見ている仲間がわっと言った。私が優勝した。丁度パープレーとなっていた。
 さぁ、こうなっては面白くてかなわない。法規課長の一年間、せっせとコースに通い、練習場にも行き、本もたくさん買い込み努力した成果もあって、ハンディは十八となっていた。このあたりのハンディがアマチュアでは一番狙いやすいのではないか。
 それから近畿財務局長で大阪勤務となった。関西には茨木、広野、宝塚、西宮、鳴尾などの名門コースもいろいろある。そのうち三十数か所のゴルフ場は名誉会員として取り扱ってくれたので、大変助かった。いまどきは、世間がうるさくて通らないかもしれないが、その頃は公務員の人はとても短期間の会員にはなれないし、ヴィジターではプレー代もかかると思ってくれたのか、ともかく、そういう待遇を伝統的にしてくれていたので、土日は喜んでコースを回っていた。土曜は午前中勤務をし、正午におむすびを車の中で食べて、コースにかけつける、というあんばいであった。あの一年間に確か百回以上コースを回ったと思う。
 役所の同期生の近藤、松本が大阪国税局長、神戸税関長にいたし、みんなゴルフに熱心であった。
 もっとも、大阪に赴任した直後、三十数人のコンペに誘われて、いきなりシングルの人達と組んで回らされた。その人達はオフィシャルでシングルであり、またあとで知ったが、関西のハンディは関東よりも辛いらしく、私はこてんぱんにやられて、握ったチョコレート代を後日取り返すのに苦労した覚えがある。
 やかましく言えば、チョコレートで握るのだっていけないのだろうが、まぁ当たり前になっていた。現にコンペには検事正も加わっていて、私がやっている程度までは黙認するのだと言っていた。
 あちこちのコンペでカップを貰うようになった。ハンディは一年間で三つ上がって、十五で回っていた。私の顔をみると嫌な顔をされるぐらいに強かったとは言わないが、スコアは悪くはなかった。
 一年の大阪勤務が終わって、東京に戻ることになった時にゴルフの会があった。そこの会で私は二位になったことが二回あるが、優勝したことは無かったので、最後のコンペで是非カップをと思っていた。
 アウト45、イン42、ハンディ15、ネット72で回ったが、プレー後の風呂の中で私と全く同スコアで回った人がいることが分かった。ネットが一緒ならローハンディが上となるが、これは一緒の15であり、同じスコアの場合はモーニングベストで決するがこれも一緒であった。全く一緒の時は年齢の上の者が上位になる。その人は私より三つ上だったので、私はまたやられたと思ったが、うれしいことに彼は前にカップを貰っていた。二度目の場合は次に譲るというルールが生きて、やっと私が貰うことになった。もっとも、そのコンペの後半、私はぎっくり腰になったのを無理して回りきったために、一か月余り腰が痛くて唸っていた。懐かしい思い出である。
 主計局の次長として本省に戻ってからもゴルフは熱心にした。といっても忙しい予算期は土日もなかったので、コースには出られず、せいぜい練習場でうさを晴らしていた。
 昭和四十九年に大蔵省を辞して、直ぐ鳥取県で衆議院議員に立候補したので、ゴルフとは縁遠くなった。
 土日はいろいろな会合があって、とてもグリーンには近ずけない。ただ、年に何回か同好の人を集めて、新英会(後援会)のゴルフ・コンペを開いていた。商品はあちこちから寄付してもらって、プレー代は各自負担という形であった。
 地元の新聞社主催のゴルフ・コンペに一回参加して優勝し、カップを貰ったことがある。百数十人の参加者でラッキーであった。
 昭和五十一年十二月の選挙で私は、衆議院議員に当選をした。ゴルフブームが始まったころであろうか。盛んに新しいゴルフ場への入会申し込みの文書が舞い込んできた。
 会員権の相場が値上がりをして、投機の対象になっていた。一口何百万円のところが、何千万円の会員権も出てきたし、小金井カントリークラブの会員権は何億円とか、途方もない相場もついていた。
 当時は、県の開設許可を得れば、直ぐ会員の募集ができることになっていたので、入会金を集めて、ゴルフ場は出来ないまま、業者がドロンを決め込むことが後を絶たず、私も友人の紹介で、二、三百万円もの会員権を二口もだまし取られた。
 なかには、茨城県のあるゴルフ場の場合、十八ホールで五万人もの会員を集めていたので、メンバーがいつ電話してもスタートがとれないという話がマスコミに取り上げられた。
 それに、ゴルフ場を新設する場合、農地を転用するところが少なくなかったが、それはゴルフ場の所要面積の二割以内と定められていた。
 ゴルフは一部の特権階級のお遊びではなく、オリンピックの競技種目にも繰り上げられようかという時代であったため、私は健全なスポーツとして発展することが望ましいと考え、有志でゴルフ産業振興議員連盟を創った。
 当時、ゴルフをプレーする人は約一千万人、年間プレー回数は七千万ラウンド、ゴルフ場の数は二千数百という状態であった。
 自民党内にゴルフをプレーする仲間の集まりに天狗くらぶというのがあったが、私どもの議連は産業としてのゴルフ場を育成することを目的としていた。関連団体が六つあったが、それらと一堂に会して、議員連盟を発足させることにした。
 額賀君を幹事長にして、ゴルフ場はかなりの部分を造成していることが確認されてからでないと、認可を下さないことにする一方、農地の転用は五割まで認めることなどの立法措置をした。米生産が過剰な状態にあり、補助金を出して減反しているので、このような転用は奨励して然るべしという考え方であった。
 これで、計画だけで入会金を握ってトンズラするような悪徳業者の発生を抑えられるようになった。ゴルフ場の数も二千五百くらいで止まったのではないか。
 次は、ゴルフ場利用税の問題である。消費税が創設されることになった時、各種の入場税の取扱いが問題となって、原則としてすべて廃止とし、いわば消費税に吸収されることになった。
 ところが、ゴルフ場の利用税はゴルフ場の分布が偏っていることもあり、多く所在する県や市町村にとって、税収が無くなるのは困るとう強い反対があって、これのみが残ることとなった。
 われわれ議連としては、スポーツとしての性格を認めて、他の入場税と同様に取り扱うべきことを主張したが、認められなかった。
 消費税が3%から5%に引き上げられた時に、議連として再度交渉したが、全部は認められず、七十歳以上と十八歳未満に限り利用税を免税にするということになり、今後消費税をさらに引き上げるときは、全廃するという一応の申し合わせになっているが、総務省とは話が決着していない。
 もっとも、その頃以降、ゴルフ場のブームは去って、会員権相場も暴落しているところが多くなった。
 私の持っているゴルフ会員権の例を挙げると、昭和四十年代に一口三十五万円で入会したのが、ブームの頃は四千五百万円まで値上がりし、その後暴落して十万から二万円、名義書換料が四十万円とかいう相場になった。それくらいの変動で、なぜブームのころ売らなかったのか、と後悔したが今となっては及ばない。
 私は、霞が関、軽井沢、箱根などの会員であるが、これらの会員権は売れないで、退会即入会金の没収となる。スリー・ハンドレッドの保証金は返還してくれるが、いずれにしてもこれらの会員権は販売できない。
 月に何回か飛行機に乗る度に下を眺めると、ゴルフ場がゴルフ銀座といわれるぐらいたくさんあることがわかる。天気の良い日、親しい仲間とゴルフをする楽しみをよく味わっているだけに、ゴルフ場の経営が成り立っていけるような行政も必要かなといつも思っている。
 ハンディのことに触れておくと、前に述べたように大阪に赴任した時は十八であったが、帰る時には三つ上がって十五、それから三、四年経つとオフィシャル十になり、何時だったか一斉切り下げにより十二になった。今は十三となっているが、カードを出していないし、実力はゴルフを始めたころと同じくらいに下がっている。
 その原因は言うまでもなく、第一は飛ばなくなったことである。
 私はいろいろ本も読んだが、戸田藤一郎のパンチ・ショットが一番気に入り、また、私に向いていると思ったので、専らその真似を心掛けていた。クラブはRでも固い方、ヘッドも重め(百三匁)、握りも太めにしていた。ドライバーの距離は220〜230ヤードで、ミドルホールではフェアウェイのウッドを使わなかった。
 ハンディは、素直にカードを出していれば当時はワンラウンド82、3で回っていたので、シングルになれたのであるが、握りがあったし、その頃はハンディの一つ、二つが勝敗に響いていたので、申請をしなかった。いつでもとれると思っていたので。
 鳩山さんはハンディ九で綺麗なスィングをしていた。子供のころからゴルフをしていたので、どうして他の人は空振りなどするのかわからない、などといっている人であったが、私とはどうしてもスクラッチだといって、ハンディの一つの差を認めてくれなかった。
 われわれ仲間のカケはチョコレートでなくて、その日一番負けた人が夕食代を払うということになっていた。食べ盛り、飲み盛りの頃であったから、勘定はバカにならなかったので、皆真剣勝負の気持であった。
 コースによって難易があるのは当たり前であるが、われわれの腕では70を切るのは容易ではなかった。しかし、最盛期はアウト・イン三十台ということも時々あった。
 ホールインワンも一回だけだが経験した。あれは、軽井沢で毎年開かれていたナベ・プロのコンペであった。二百人近くが参加して盛大なお祭り騒ぎになっていた頃である。八月八日西ゴールドの八番193ヤードのショートホールで私の打った球がグリーンに乗ったと見えたが、グリーンに近ずいてもどこにも見えない。念のためにピンを抜いたら、そこに球があった。ホールインワンである。球はピンに直接当たって、そのまま中に入ったらしい。ピンに当たった球が跳ねて穴の手前の淵に当たったらしく、そこが球の形に凹んでいた。
 ともあれ、派手な演出をしたようになった。中曽根さんは、こんな大会でのホールインワンだ、二、三百万円のお祝儀を出してもらいたいなぁと笑いながら言う。とんでもない、そんな金額と思ったが何もしないわけにもいかない。
 当時、渡辺財団文化賞とか、何とか言う賞が設けられたばかりであった。コンペの前の晩の前夜祭に挨拶をしたソニーの盛田さんがホール・イン・ワンでも出したら、この賞の資金に寄付してくださいといって皆さんからから拍手を貰っていた。
 ホール・イン・ワンなんて、宝くじに当たるみたいなもので滅多にないといって、そのコンペの一週間前ぐらいにゴルフ保険に勧誘に来た損保会社の人を追い帰していた。盛田さんの挨拶に皆と手を叩いていたが、まさか私がホール・イン・ワンをするとは思ってもいなかった。
 この保険については、一寸した話がある。ゴルフの大好きな同期、松本十郎君が、保険第二課長をしているときにホールインワン保険を作るという話を当時の局長石田さんにしたら、局長曰く、君、保険は死んだり、怪我したり、事故があったりそんな良くないことが起きたときに対するもので、ホール・イン・ワンのような滅多にないおめでたに保険を掛けるなんでおかしいではないか、と一発かまされて取りやめたという。
 その後、ホール・イン・ワン保険を認めたのは何局長か承知していない。保険金は五十万円と聞いていたので、私は渡辺文化財団に五十万円を寄付して、ホール・イン・ワンの御祝儀に代えた。
 ホール・イン・ワンはそれ切りやっていないが、ある時一発O・Bのあとの第二打がカップインしたことがある。パーということになったが、惜しかった。
 イーグルをとったことは一度ある。パー・ファイブのホールの第三打、残り90ヤード余りを直接カップインで沈めたので、そのボールもとってある。
 
 


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