back | 代表理事
相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2014.02.20リリース |
第百七十回 <果物> |
何と言っても果物はうまい。ただ、果糖を含んでいるものが多いので、糖尿病になってはいけないと結構家のものはやかましくて、看視の眼がきつい。ことに夕食後は食べないようにと厳しく言われている。
幼稚園の頃伊予にいた。みかんの盛んなところであるが、あまり食べた記憶がない。すぐ上の長男が四つの時柿を食べて疫痢になり早世したので、父母が果物に少々神経質になっていたのかもしれない。 私達子供の頃はメロンなど殆んど食べたことはない。もっぱらみかんや梨であった。トマトは今や果物というよりも食材の感が強いが、これもあまり食べなかった。 西瓜は随分食べたように思う。まくわうりも時にはよかった。家の前には畑があって夏は西瓜がゴロゴロしていた。この西瓜は夜こっそり泥棒して食べるのである。柿やいちじくもスキを狙ってもいで食べたものだが、西瓜や柿は黙ってとってもまあ差支えないといわれていたので、競争でやった時期もあった。 雲州みかんはやや大ぶりで皮も柔かく、甘味も強くおいしかった。相州みかんは皮が固く、やや小ぶりで、酸味がきつかったが、十日程の船旅に耐えられるということで専らアメリカに輸出されていたと聞いている。小田原辺のものは私の母の祖父が初めて植えたものだと聞かされていたが、本当だろうか。 そうだ、泥棒と言えば、いちご畑もよく忍び込んだ。いちごはよく熟さないと甘くならない。近頃は、あまおうなどバカでかいものもあるが、昔はそれ程大きくはなかった。そそかっしいのはへびいちごを間違えてつんだりした。 子供の頃百坪足らずの庭に藤棚があったが、その一部にぶどうの蔓を辷わせていた。酸っぱいながらぶどうの味だった。 柿の木が一本スクッと立っていた。甘柿をついだその木は成り年には随分沢山の実を食べさせてくれた。 あの頃はあけびの実を探して歩いたもので、余りおいしいものではなかったが、何かスカッとした味わいもあって、数が乏しいだけに探して歩く楽しみがあった。 果物と言えばバナナを忘れてはいけない。台湾が日本の領土であったせいもあってか、バナナはかなり多く入っていた。バナナの叩き売りが縁日にはつきものの様になっていた。 手元に縁日の大道芸人の口上集があるが、がまの油売りと並んでバナナの叩き売りの口上も亦楽しいものであった。 青い状態で移入されたバナナは亜硫酸ガスの部屋に入れて黄色く熟成するのを待っている。子供にバナナは大へんおいしくて腹一杯かじりたいと思ったものだ。戦争中足らない船腹で台湾からバナナを運ぶためにこれを干して「干しバナナ」として運んできた。無論バナナの味はしたし、それなりにおいしかったが、いつか生のバナナを食べたいな、と思っているうちに敗戦で実現するようになった。 バナナは郷愁を含めてわれわれ戦前派はよく食べるようだが、若い人にはあまり好まれぬと聞いた。どうしてか、というとカロリーがあり過ぎて太るからだと言う。世の中は変なものである。ただ、私などは今でも毎日バナナを一本は食べているが、やや小ぶりだが甘く、おいしい台湾産ではなくて、フィリッピンとか、南米産のものではないか。 パイナップル、マンゴ、パパイヤ、キューイ、などどれもこれもおいしいが、マンゴなどバカ高いものもある。とても自分で買って食べる気はおきない。 ぶとうは子供の頃アメリカはカリフォルニア産の干しぶどうは本当においしかった。母の弟が東京農大を出てカリフォルニアに移民でいってぶどう園をやっていた。ある時帰って来て干ぶどうの大きな袋を貰ったが、それこそ腹一杯食べたことを思い出す。 ぶどうもデュラウェアなど大ぶりで肉の厚い、甘いものは本当においしい。つい食べ過ぎる。 鳥取県は地形もあってか、田は少なく畑作が多い。果物も梨、西瓜、柿、ぶどう、りんごなどいずれも産出量も多い。梨は二十世紀が本場と言われているが、幸水など三水の出荷量も少なくない。三水は肌がザラザラしているが、甘味が強くておいしい。ただ、もちはあまりよくない。 外国を旅行する時はできるだけいいホテルに泊る、例え部屋は小さいのにしてもいいと心がけている。料理はさることながら、果物は慨してお粗末なところがある。 どこの国がどうというほど外国を歩いていないが、暖い国、例えばブラジル、ポルトガルなどの果物は大きく、おいしいかったし、ロシアの果物などは小さく、固く、うまくなかった。 果物はワインに連想が行くのであるが、これは稿を改めて書くことにする。フランスやドイツのぶどう畑が余りに広大なので、一体食物はどうするのかなァという印象を持ったことだけを記しておく。 |