back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2014.02.14リリース

第百六十六回 <温度>
 私は、毎朝起きぬけに外の温度を計ることにしている。窓の枠に寒暖計を立てかけて置くのである。
 今朝はセッシ五度である。寒い。もっとも寒暖計の置いてある位置が窓ガラスに近く、部屋は暖かいので、外気の本当の温度より一,二度高くでるような気がする。というのは、朝食後迎えの車に乗って、時に車の外の温度を尋ねるとその窓の温度より一〜二度低いからである。
 毎日計っているので、寒暖計を見なくても大体の温度をあてることができるようになっている。
 私は、温度には敏感な方で、温かい、寒いか、しょっ中気にしている。
 考えてみると兵役に服している間、世界の三大不健康地の一つといわれた中支の武漢地区に一年余暮した後、寒い北朝鮮に移動し、戦後ソ連に抑留されて、本当にこれでもかという位に寒い所で暮した経験があるからかもしれない。
 私が二年半暮したエラブガの収容所はタタール自治共和国にあって、北緯五十五度であった。昭和十三年正月あの岡田嘉子が杉本良吉と越えたという南北カラフトの境界線は北緯五十度であったので、それより五度北に寄っている、ということになる。
 冬は零下二十度までは所外作業をさせられたが、それ位寒くなると、鼻の毛や眉毛が白く凍るし、眼の球も凍るような気がする。うっかり素手でドアのノブを触るとピタッとはりついて、無理に離そうとすると皮まで剥がれてしまう。
 大小便をするのが大へんであって、出た瞬間に黄色く凍ってしまう。それが次第にうず高くなってしまうので、時々ハンマーで崩き、スコップで河に捨てる。その黄色い山は春雪どけとともに液状となってボルガ河の支流カマ河に流れて行く。
 私は、昭和二十九年に会議でバンコックへ行ったついでに許可を得て、香港、マニラ、ジャカルタ、ラングーン、カルカッタ、ニューデリー、カラチの各地を歴訪した。東南アジアの初めての旅であったが、いろいろ経験をした。
 しかし、夏のこととて、とにかく暑い。ジャカルタなどは、家とて床を高くしていただけで、屋根にニツバヤシの葉を葺いているだけで、窓とてないような簡単なものである。着ているものは、ランニングシャツにパンツ。腹が減ったらその辺に生えているバナナの木から実をもいで食べる。実に金がかからない。
 賃金も大へん安いが、暮すのにもとても楽である。あんなとこに住んでいれば、汗水垂して働くような気にならないのも当たり前かな、と思った。
 私は、暑い漢口の夏を過したが、軍隊のくせに晝食後は二時間は休みとなっていた。暑い空気が入らないように窓を閉め、太陽の光もささないようにブラインドをおろし、氷を入れた冷い水を盥に汲んで、素足をつけ、素裸に褌一つで、頭に冷い水で絞った手拭を載せ、天井の大きな扇風機を回しても足らないので、横からその辺にある扇風機の風を吹きつけて晝寝をした。
 とても戦地とは思えぬ所業であったが、どうにも、あの暑さはたまらなかった。
 ジャカルタ港のベンチから見る南十字星は実に大きく、白く、きれいに輝いていた。夜ともなれば、それでも多少は風で暑さが和らぐ。
 あゝ、このいう処に住んでいたら、生活を向上させるような気も起きないから、どうしても文明も、文化も発展しないのだろうと思った。
 寒さは、火をたいて防ぎ易いが、暑さを防ぐには冷房装置、とても金がかかる。寒ければ、着る物を何枚も重ねたり、防寒具をつける手もある。
 しかし、暑くては仕方がないところは、身体の皮を剥ぐわけには行かず、我慢は大へんだ。そこで、どうも、繰返して言う。文明、文化は北の方の国から発展して行くのではないか、と。
 そこで、どうも、繰返して言う。文明、文化は北の方の国から発展して行くのではないか、と。
 
 


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