back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.12.05リリース

第百六十回 <敗戦>
 昭和二十年中支の漢口に駐屯していた第三十四軍司令部は急遽北鮮に移駐することになった。
 第三十四軍は支那派遺総軍の下にあったが、粤漢打通作戦に従事していた。揚子江に沿って前方には第十一軍(この軍の司令部はもと漢口にあって、前線に出動した)、第十一軍と第三十四の間には満州から第二十軍が移駐された(第二十軍の司令部は東寧に置かれていた)。第十一軍は最前線にあって苦労していたが、その先には広東に司令部を置く第二十三軍と連繋をとっていた。
 第三十四軍は昭和二十年に編成されたが、頭初は武漢防衛軍司令部で、私は北支方面軍司令部から南京の総軍司令部、そこから数日後漢口に派遣された時はまだ軍隊区分としての武漢防衛軍であった。
 湖南省を中心に第十一軍の後に置かれた第三十四軍は駐屯軍のような形で、当陽の師団(広島の師団)のほか十ヶ旅団の編成で、それまでにいた第十一軍の一〇ヶ師団編成(兵力約三十万人)に較べると兵力はかなり劣っていた。
 武昌から南に延びる粤漢線の沿線に駐屯していたが、点と線の守備に過ぎず、その点も屢々支那兵に襲撃されるばかりではなく、線路に地雷を仕かけられて切断されることも度々あった。
 ともかく、漢口も次第に物騒になって来て市中をスパイがうごめくばかりか、そのスパイの連絡によってか、桂林、柳州などにいる米軍の爆撃機(B15、26、29など)戦闘機(P51、61、38など)が晝間から跳梁する有様であった。
 私は、軍司令部で対日還送物資の収買輸送などを主任将校の一人として担当していたが、昭和十九年の暮には大本営参謀が来て、戦局の暗いこととなんでもよいから買えるだけのものを買って内地へ送ってくれ、という指示をしていた。
 漢口には日本租界のほか、フランス租界、共同租界があったが、英、米系の会社は無論、五月に敗戦となったドイツ系の企業からもせっせと屑鉄、銅、アルミなどを買いまくった。
 武漢地区は人口六〇万人と言われ、内地と違って金を出せば何でも買える、という状態で、それなりに活気はあった。
 しかし、第五航空軍の司令部が漢口から朝鮮の平壌に移るや、米軍機は日中飛んで来て、目標をしっかり見定めて爆弾を投下する始末であった。
 日本軍のレーダーは薪を焚いて発電し、それでも形ばかりは動いていたが、軍司令部の地下壕に置いてある巨大な地図にレーダーからの連絡で担当士官が東何度の方向に映像大、映像大と叫ぶと、作戦主任参謀が大きな将棋の駒のようなものをパシッと置く。それだけの機能の防空作戦室となっていた。肩章をひけらかしている参謀がそれが任務かと思うと内心おかしくて仕方がなかった。
 漢口より前にいる第十一軍、二十軍の部隊を楊水江の下流に移す、その間、第三十四軍は漢口に玉碎を覚悟で籠城するので、とにかく兵糧を用意せよ、という指令が下っていた。
 それまでも、兵糧のない時に備えての訓練という名目で二週間米の配給をストップするという訓練もやった。
 六月末、いよいよ軍司令部が何から何まで積み込んだ貨車によって、漢口の街におさらばしたのは、六月の末近くであったか。
 一年余住みなれた漢口の街を離れるのは、感概なきにしもあらずであったが、それよりも、これでよいよ当面戦火の街を離れることができる、という㐂(よろこ)びの方が大きかった。楊子江を渡り、黄河を渡る時は万歳を三唱したものだったが、それが背負投げてくつたのは、北京に近づく頃、われわれは当初言われたように満州のハルビンに移るのではなく、カンコウと同じ発音ながら朝鮮の咸興に行くのだ、という指示を貰ったからなのである。
 ハルビンは白系ロシアの美人が沢山いて、街もヨーロッパ風で綺麗なところだと、知ったかぶった古参兵に言われて、何かしら楽しい期待を持っていたのに、場所も場所、りんごぐらいしかないような北鮮とは、とてもかなわない、という兵隊仲間のぐちであった。
 第三十四軍は八月初めが編成完結となっていた。一ヶ師団、二ヶ旅団のほか重砲などの軍直轄部隊を持っていたが、急遽編成された部隊だけに、馬はあれども鞍がない、砲はあれども弾丸がない、といった情けない有様であった。
 被服、物品の主任将校の私の仕事は先づ兵隊の飯の世話、薪の世話であった。関東軍の直轄軍として、ロシアの兵隊の軍服を八千人分用意する、というのも仕事に入っていた。
 われわれは、上陸してくるかも知れぬ米軍に備えての移駐と思っていたが、ロシア兵の軍服の用意とは大へんな見当違いであった。がロシアが攻めてくるかも知れないという木本營の見通しは間違っていなかった、と知った時は、もう何ともしようがなかった。
 日ソ間に不可侵条約があるとはいえ、いつ寝返ってくるかわからないソ連に連合国との和平交渉の仲介を依頼するなど、本当にまぬけな行動しかとれなかった大本營は全くバカとしか言いようがなかった。犠牲になったのは、われわれである。
 ポツダム宣言第九項に違反して、ひとりソ連のみが、われわれ在外の軍人、軍族、一部民間人を酷寒のソ連邦内に貨物のように運び込む、その所業を日本側ではいったい誰が何時了解したのか、それは未だに謎である。
 いろいろ尤もらしい話はあるが、真実を話すべき人(例えば瀬島参謀)もついにしゃべらないで墓の下に行って了った。
 いづれにしても十人や二十人の拉致問題ではない、六十万人が拉致されて六万人が死亡したのである。
 不可侵条約を一方的に破り、ポツダム宣言に違反したソ連(今はロシア)に謝罪と賠償を(少なくとも不払い賃金の補償)を要求するのは当り前ではないか。
 戦後はまだ終わらない、安倍政権に期待する。
 
 


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