back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.11.13リリース

第百五十八回 <川端康成>
 川端のものは初めて読んだのは一高に入った昭和十二年ではないかと思う。当時寄宿寮の自習室は読書部屋でもあった。夜は寝室で読む。十二時の消灯後はローソクを枕元に立てて読む。ロー勉と言った。
 若いわれわれは、自習室の他の人の本立にどんな本があるか、それと気づかぬようにしてよく眺めていた。背伸びしてカントの純圏攝ォ批判などを読んだのも、その頃であった。
 和辻、倉田、などの本も一生懸命読んだことを思い出す。受験勉強でせきとめられていた読書欲が一挙に吹き返したようで、ロー勉をやらない時は、寮の入口の三階にある読書室に籠っていることもあった。ここは、終夜電灯がついていた。
 一高へ入るには大抵の人が猛烈な勉強をして来ている。私も寝る時間も惜しんで一年余り本当に死ぬ思いで受験勉強をした。
 入学してみると、陸運(陸上競技部)に入っての練習は一日三時間ぐらいかかるし、ただ競技のために練習をするのは、何のために一高に入ったか、わからないような気がしたので、一学年の夏休み明けに石川吉右衛門や松本彦良などと退部して、一般部屋に入ることにした。
 さて、その頃だったと思う。何となく何もかも空しい気がし、又、猛烈な受験勉強の反動からか、眠れなくなって、睡眠薬を飲むようになった。カルモチン、ドルミン、アダリンなど手当たり次第に飲む、それもどんどん量が増えて致死量に近くなったので、自分でも一体どうなることなのか、と心配になった。
 そこで、気分を変えて酒を飲んでみたら、何と、直ぐ寝つけるようになったではないか。それまでも少し酒を飲んだことがあって、不思議なことに私は、酒やタバコは最初からうまいと感じていた。見えからむりをして飲んでみる、というようなことはなかった。
 酒は専ら日本酒、タバコは両切りのチェリー(後は缶入りホープ)。
 寮では今から考えると少し不思議であるが女の話は一切出なかったし、出さなかった。寮は女人禁制で、女性が入るのは一月三十一日の記念祭の時だけというきまりになっていた。
 たまに田舎の中学から二年も浪人して入って来た生徒で、女性を知って、その方面の話をする人もあったが、途端に「シッシッ」と止める声が上がって、しゃべりかけた人は恥かしい思いをする、というような場面があった。
 女性のいるバー、例えば渋谷の百軒店などへは随分通うものがいたが、女性と関係がありそうなのは、ほんの一、二人で、皆は相手にされなかった。
 そいう空気のなかで、小説を読んでいた。洋の東西を問わず、外国物では、ロシア、フランス、ドイツ、イタリー、スイスなど、日本語では、古事記、日本書紀も始まって枕草紙、源氏物語、土佐日記、十六夜日記、源平盛衰記、太平記、本屋宣長の王勝間、西鶴の好色五人男など、明治期は漱石、欧外など、昭和に入って、川端、横光、谷崎、などなど手当たり次第。
 読むだけでは物足りなくなって小説を書くようになった。向陵時報の委員(寮の委員)をやり、校友会雑誌にも何篇かの短編が載った。
 本当に、小説家になろうと思い詰めたこともあったが、やはり、芸術の道は努力だけで成功することは難しいと諦めて、大学は法学部に入ることにしたのである。
 川端がノーベル賞を貰ったから立派な小説家と思うのではない。やはり、今読み直してみても、じっと人生を、人を見据えている姿は真似してもできるものではない、ことがよくわかる。
 有吉佐和子さんは事故死ということになっているが、私は、有吉さんの死は何となく川端さんの死に似ている気がしてならない。
 この世に生れる空しさを、もうこれ以上果せる自分の仕事はない、と思ったから、自裁の道を選んだのではないかと思う。間違いだろうか。
 
 


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