back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.11.08リリース

第百五十五回 <果物>
 果物というと、日本で生れたことを幸せに思う。南北に長い列島であるだけに日本には殆んどあらゆる種類の果物がある。熟成を待つ方がよい果物もあるが、新しい果物の方がおいしい、というのが大部分ではないか。
 果物も昔はそれ程安くはなく、種類も少なかった。私は母の実家は湘南の二宮で温暖の地、母の祖父が始めて移入して来たとして蜜柑の山を持っていた。いわゆる相州蜜柑で皮が割と固く、酸味が強いので、横浜から二週間もかけてアメリカに輸出するのに向いているとされていた。
 夏休みには田舎へ行き、お蚕の桑つみを手伝ったりするのが例であったが、蜜柑山に登ってよくうれて黄色く色づいているのをいくつももいで山の中腹に腰かけてかぶりつき、ちょっとまずいとポンと下に投げて捨てたりして、楽しんでいた。
 蜜柑は、一家が愛媛にも二年間、父の仕事の関係で住んでいたので、ここでも名物の伊予柑をよく食べたことを思い出す。
 今でこそ、バナナなど、子供もあまり有難がらないと聞いているが、私等の子供の頃は、縁日でバナナの叩き売りなどを見かけたものの、そう安いものとは思わなかった。
 戦争中は輸送力の関係もあって、台湾からは乾燥バナナが送られていた。しなびてはいたが、願る甘く、子供にはご馳走であった。
 小学校五年生の時、急性腎臓炎を病って、離尿剤の一部としてできるだけ西瓜を食べるように言われ、毎日のように噛っていた。西瓜もそもそもジュースにしてはあまりうまくもない。一年間、西瓜ばかり食べていたので、あの臭、味が鼻について、病気が直ってからも暫くは、西瓜の臭もかぎたくはなかった。
 柿は父が好きだったし、西竹の丸の家の庭には、柿の木を一本植えた。渋柿の台に甘柿の苗を継いで、桃栗三年、柿八年というが、四、五年たてばもう実がなる。生り年と否とはあるが、生る時は、木一本に百以上の実がなる、これは楽しみで、毎日手を伸ばしては母親にお腹を壊すといけないと注意された。私の兄は、柿で疫痢になり、四才で早世したと聞いている。大へん利口な子であったらしい。
 父の実家は東横線の綱島駅から車で二十分ぐらいの場所にあった。親戚で桃畑や梨畑を持っているところがあった。そういう所からの貰いものも子供心に嬉しかった。
 大学に入った頃に戦争が始まっていて、果物どころではなくなっていた。
 戦地に行ったのは、昭和十八年の春であった。北京はまだ寒い日があって熟した柿を戸外で氷らして、シャーベット状になったものをスプーンで食べたが、これは本当においしかった。
 中支の漢口に一年以上いたが、余り果物の記憶はない。
 終戦後はソ連に抑留されたが、ボルガ河の周辺のラーゲルでは瓜はおいしかったが、果物は一般に少ない上に、小さく、甘くなく、それもとても抑留者のわれわれの手には入らなかった。
 二十三年八月半に、舞鶴に上陸して食べた蜜柑や梨のおいしかったこと、生きている幸せを感じた。
 それからの生活は果物とは切っても切れぬ仲である。
 メロン、りんご、梨、蜜柑、夏蜜柑、八朔、杏、柿、桃、李、ぶどう、バナナ、パイナップル、西瓜、金柑、マンゴー、まくわうり、キゥイー、いくらでもある。
 果糖を余りとらない方がよいというので、気をつけながら果物を食べているが、家人の眼がこわい。とにかく果物はうまいものね。
 選挙区の鳥取は水産県であるが、農業県でもあり、果物も、有名な二十世紀など梨類、西瓜など全国的に知られている他、ぶどう、りんご(南限という)、柿など果物は何でもあるといっていい。
 大きな撰果場が大ていの町村に一ヶ所以上あったし、農業の大きな収入源となっていた。
 昭和三十年代に農業基本法が米麦の増産を中心とする農業から果樹、畜産を中心とする農業に切り換える大方針が打ち出されて果樹振興法が制定され、果樹も農業共済の対象に取り入れられることになった。
 
 


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