back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.10.30リリース

第百五十三回 <小説>
 私にとって小説はどういう存在であるか、ふと立ち止まって考えて見たくなった。
 小説の読み始めは小学生の頃の少年倶楽部の連載ものではないかと思う。山中峯太郎の敵中横断三百里や大東の鉄人など雑誌が出るのを待ち切れないようにして読んだ。少年倶楽部だけではない。私には姉妹がいたから少女倶楽部、幼年倶楽部も殆んど毎号読んだし、母の買っていた主婦の友、婦人倶楽部や新青年、キングなど目にするものは手あたり次第に読んでいた。
 余り文芸物は読まない父の書斎の本棚に菊池寛と夏目漱石の全集が入っていたので、それも小学校から中学校にかけてあらかた読んだ。
 今でも覚えている。小学校五年生の時、菊池寛の「真珠夫人」を読んでいたら、まだ早い、といって父から取り上げられたことがあった。男女の関係が出てくるので、気を回したのかと思ったが、なに、中学に入る頃には全集をあらかた読んでいた。
 父が、鹿児島で女子師範や第二高女の英語の教師をしていたせいで、城山文庫という冊子が何冊も本棚に並んでいた。西郷南洲の事蹟に親しみ、後年、出張で鹿児島に行った時に岩崎谷莊という、南洲翁終焉の地近くに建てられた旅館に泊ったのは、何か懐かしい思いがした。
 谷崎潤一郎の「痴人の愛」も記憶にある。ナオミという女性が登場するチャブヤは横浜の名所的存在だった。その名をこの本で知った。
 谷崎は一高の、それこそ大先輩であって、その頃の生活をバックにした小説「羹」は短いながら印象が強い。その中で友人の唱う河東節のことは今でも名をよく覚えている。義理の叔父の名出が河東節が上手で、一席をともにした時聞いたその節のよさが忘れられない。名出ももう亡くなった。
 話は元に戻るが、父が菊池寛の、それも全集を買っていた理由は、父から聞いたところで、父の東京高師在学中、同じ科(英語)の級友で、部屋も一諸だった、からと言っていた。菊池は一高を有名なマント事件で級友の身代りとなって退学した後、学資の要らない東京高師に入ったとは彼の書いたものからよく知っていた。
 しかし、小説の世界にのめり込むように小説を読み、よむだけでは物足らなくて、自分でも書くようになった一番の原因は、横浜一中二年生からの国語の担任、犬養孝先生の授業だったと思う。
 教科書の授業で合い間に先生の読んでくれた芥川の「蜘蛛の糸」や「鼻」といった小説にパツと違う世界に入り込んだような強いショックを受けた。
 アンチョコなどは使わず言葉の意味を調べる時は絶対に辞書に当るようと言われ、毎週日曜日には朝から野毛の市立図書館に通い、文学書にも親しむようになった。朝から出かけ、晝は十三銭のカレー・ライスを食べ、夕陽を浴びて野毛の坂を下った頃の思い出は本当に懐しい。
 一高の向陵時報の委員となり、伝統のある校友会雜誌に再三投稿するようになって、一ころは小説家になろうと固く思っていた時もあった。
 すべて若き日の思い出に過ぎないが、雀百まで踊り忘れずという言葉を時々噛みしめて、そのチャンスはないか、など思ったりしている。
 
 


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