back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.10.30リリース

第百五十二回 <所感>
 私は、大正八年生れ。この七月で満九十四歳になった。私の学校仲間、軍隊友達もあらかた亡くなった。
 毎日、新聞の死亡欄を最先きに見る。前よりは知人が少なくなった気がする。そうだろうと思う。たまに知っている人の名前を見るが、大抵、私より若い人である。
 大東亜戦争を経験した人も本当に少なくなって来た。つい最近「世界から見た大東亜戦争」という本を読んだ。四六二ページもあるその本は起るべくして起った大東亜戦争とこの戦争は日本の敗戦に終ったけれどフィリピン、インドネシア、ビルマ、インドなど南方の欧米の植民地の人達に戦う勇気を与え、独立への願望を強め、少なくとも独立を早める効果があった。という立場から、太平洋戦争ではなく、大東亜戦争という命題のもとにこの大戦を観ている。
 戦後、あちこちに見られる日本国内の自虐的な大東亜戦争史観ではない。
 一体何のためにこんな戦争をし、又、続けているのか、という疑問を学徒兵として出陣した私どもが持たなかったと言えば嘘であるが、同時に、さはさりながら学徒兵は一生懸命に職責を果たしたと思う。ある意味では、職業軍人よりも前線で真剣に戦ったと思う。それだけに、昭和二十年の八月十五日の終戦の大詔は堪えた。
 ある程度予期したことではあるが、正夢となった。終戦の玉音放送を聴いた時は茫然自失、夢遊病者のように京城の町中をさまよいあるいた。真っ青に晴れた空高く二機の米軍機が白い飛行機雲を曳いて飛んで行った姿は忘れられない。あゝ、これで戦争は終った。どっとおしよせるような安堵の気持があった。あゝ、これでもう死ぬことはないと思った。
 と同時に、それでは、この戦で後に続くものを信じて戦場で散った戦友たちの死は何だったのか、何の意味があったのか、と思わざるをえなかった。
 戦後、ソ連に抑留、丁度三年目の昭和二十三年八月十四日に舞鶴に上陸した私達の見たものは、正に国破れて山河あり、の故国の姿であった。
 戦前の日本はなかった。これからの日本はどうなるのだろうか。東海道線を引揚列車に運ばれて懐かしの東京に近付くにつれて荒廃した街の姿に声もでなかった。
 あゝ、日本はもう二度と立ち上がれないのではないか、と思った。日本は七年間も連合軍の統治下にあった。私も大蔵省にいて、何をするのにもGHQのアプローバルを必要とする仕事をして来た。
 その日本が、不死鳥のごとく復興を続け、遂に世界第二の経済大国にまでのし上がって来た。世の中は変るものである。
 昭和三十年の夏、私が初めて欧米に出張した時は、ホテルのロビーを歩く時、キシキシと鳴る日本の靴の音を気にしなければならないような気がした。ホワイト・ハウス内にあった予算局に毎日調査に通ったが、何か辞を低くして教えを乞うような気持がしなくもなかった。私を町中で中国人と間違えられ、時にはプエルトルコ人かと尋ねられた。南北戦争はとっくの昔に終ったとはいえ、米国も白人の世界であって、私の泊っていたワシントンのホテルは従業員に黒人が多かった。一流のホテルでは黒人を雇っていないと、と聞いた。
 平成二年、私が経済企画庁長官としてブラッセルで開かれたOECDの総会に出席した時、二十二ヶ国の代表が集まったが、有色人は私一人であった。まだ世界は白人の世界であることを痛感した。そういうコンプレックスを持ってはいけない、ひがみは捨てろと思っても、なかなか簡単ではない思い出あった。
 かつては南アジアの欧米の植民地はどうあがいても欧米のくびきから逃れられないと諦めていたのに、日本軍があっという間に勝利をし、彼等を打ち払ったので、これならやれると目が覚めて独立に向けて立ち上がることが出来たと言っている。
 大東亜圏の理念のもとに国際会議が開かれたし、戦中も、戦後も陰に陽に軍事的には独立を目指す人達を支援する日本人も少なくなかったと言う。
 そういう事実は事実として承知しているようにもっと広く呼び掛けることが大事だと思っている。南京の大虐殺など全く信じられない作りごとだと中国の戦線にいた私は思っている。
 慰安婦の問題にしても、何故日本の場合だけをあゝいう形で採り上げるのか、よくわからない。日本でも公娼制度は認められていた。業者が戦地へも出かけて商売をしていたというようなことが実態で、軍が娼婦を強制連行したというようなことはないと信じている。
 この一冊を読んで、ますますもう自虐的な言辞は止めて欲しいとしみじみ思っている。
 大東亜戦争が起きたことは日本にとっては不幸なことであったが、その歴史的な意義は後生の史家の評価に俟つとして、少なくとも私どもは避ければ避けたかったが、止むをえなかった戦争であった、と思っている。
 
 


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