back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.09.25リリース

第百四十九回 <家>
 戦前は貸家が多かったし、自分の持家に住む人は少なかった。最初は二人で一世帯を持つが、その中子供が生れ、又戦前はこの頃と違って子供の数が多かったから、家族の人数に応じて広い家に住み替えて行く例が多かった。
 私の家も地方を回っている時は仕方がなかったが、生れ故郷の横浜へ戻ってからも坂下町、若尾山と借家を転宅し、昭和五年、私が小学校の五年生なった時に西竹の丸に念願の自宅を建てることができた。
 父にしてみればやっとの思いであったろうと子供心にも思った。敷地は一〇〇坪位でもと畑を借り、正確には覚えていないが五〇坪足らずの家を新築したのである。
 主屋が玄関の三畳、父の部屋八畳、居間など六畳三室、台所、便所二ヶ所、洗面所、離れが六畳一室、物置、風呂場だった。
 帰山という棟染の手で一年近くかかったと思う。
 山元町の市電の終点から狭い坂道を上って西竹の丸の台地に至るが、家の前は畑、右も畑、隣りは主人がイギリス人とのハーフ、後ろはちょっと下がって会社員の家という工合であった。
 戦争になってから、焼夷彈のことが心配されたが、各戸が少しづつ離れているから延焼することはないだろうなどと言っていた。その通り延焼はしなかった。自宅は落ちた焼夷彈で全焼したが、回りの家は無事だったのである。
 すべて、私が支那にいる間の出来事で、出征している私に知らせない方がよいという配慮で、私はソ連に抑留されてから事実を知らされた。
 今から思うと早く知らせて貰えたら、何とか少しは役に立てたろう、と今でも残念に思っている。
 というのは、二十年の夏漢口を発つ時、私は買い集めていた本(多分四〇〇冊ぐらい。不思議なことに内地での発禁本などが支那で売られていた)など身の回りのものを売り払って手にした儲備銀行券を北京の軍司令部で両替してくれたが、それが日本円で一万数千円あった。
 それを内地へ送金したら焼け跡を探して家を買うこともできたのに、全然知らなかったので、そのまま朝鮮銀行券に替えて持っていて、ソ連軍に押収されて了った。
 多勢の子供をかかえていたが、男は私一人、それが外地の出征しているとあって、父も苦労をしたと思う。
 後で聞いた話だが、一家はどこかの学校の雨天体操場に移って何カ月を過し、私が帰国した時は、清水ヶ丘の小学校の校舎を間仕切りした所に住んでいた。
 私は、そこから毎日大蔵省に通った。二十三年の十二月か、清水ヶ丘の家へ戻る途中、京浜急行の駅で下車したところ急に盲腸炎となって、駅のベンチで休み、やっと歩いて家に辿りついた。
 翌年三月、私は、下京税務署長として京都に赴任した。一家は、森町に一戸を借りて住んでいた。場所は、わるいところではなかったが、街の中心部から離れて、少し不便であったし、父は、も一度自分の家に住みたいと思っていた。
 山元町の市電の停留所の近くの台地の土地が手に入るので、そこに自家を建てたいと父が相談に来たことがあった。
 私は賛成しなかった。そのわけは、どうせ作るならも少し規模よりも大きな家にしたかったし、又棟染を帰山に頼むというので、それも気に入らなかったからである。
 父には、昭和四十三年私が結婚してから平町の家(四十一年頃月賦で買った)に住んで貰うことにしたので、父の自分の家を建てる望みは果たせなかったが、私の家で最后を迎えてくれたので、いくらか責が果せたのではないか、と思っている。
 
 


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