back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.06.28リリース

第百四十四回 <俳句>
 「有明の主水に酒屋つくらせて」。芭翁俳諧七部集の中の一句である。
 横浜一中の時の国語の先生、文化功労者・犬養孝先生には本当に長いこと師弟の交わりを許して戴いた。
 お子さんにめぐまれていなかったせいもあってか、私達多勢が横浜一中、台北高校、大阪高校、阪大、甲南女子大など先生の教壇は変っても言わば肉親的な親しみをもって甘えていたのではないだろうか。
 先生は正に万葉集一筋であって、しかも歌はその詠まれた現地に出かけてその土地の自然の姿も良く見なければならないと言う確固とした信念のもとに教え子たちと共に全国に万葉旅行を展開された。
 先生の歌詠法は独得のもので犬養節と呼ばれた。
 先生は教師としても極めて熱心な人であって、当時生徒の間に当然のことのように使われていたアンチヨコを嫌われ、わからない字句は辞書に当って徹底的に調べることを繰返し生徒に教えていた。
 私は、今もある横浜の市立野毛図書館に休みの日は朝から出かけ、晝にカレーライスなど食べながら夕暮れまで辞書を写し、野毛坂の夕景の中を下って家路についた。
 私の辞書好きはその辺から啓発されたのかも知れない。
 勿論、図書館では一日辞書を写していたわけではない。教室で先生の読む芥川の「蜘蛛の糸」、「トロッコ」、「鼻」などの文学の世界を目覚めさせられた私は、一高入学以来すっかり文学に魅せられ、できる限り教室はサボって、寮や図書館で手当たり次第に小説を読んだ。日本の古典も岩波の黄色い帯は殆ど全部、当時学生の間に流行していたロシア、ドイツ、フランスの作家のものを含めて洋の東両を問わず、文芸びたりの日々であった。
 やがて、読むだけではもの足りなくなり、校友会維誌や向陵時報に毎号のように作品を載せるようになった。
 一高三年、将来の進途をきめるに当って、小説家になることを一時思い詰めたが、それを一生の仕事としてやって行けるかどうか、悩みに悩んだ。
 芸術の世界は努力だけで進めるものではない。どうも自信が持てなかったので、私は、潔く、その道を諦め、そのような芸術家を育てて行く文化国家のために盡す方が自分に向いていると思った。東大は法学部政治学科に入った。
 犬養先生が台湾におられた頃もよく文通をした。いつも、どこにおっても変らぬ先生であった。
 犬養先生の教えられた文学のなかに当然のように俳句が入っていた。蕉翁、蕉村などの句集を求めて、連歌の、まことに巧みな構成の世界は日本人の文学の才の深さを思わせるものであった。
 先生は「この土堤登るべからず警視庁」というのは、十七字だけれどもとても俳句とは言えない、と笑いながらの授業であったが、私にもひと頃、句集を集めて読み、毎日何十句も作って手帳に書きつけていた日々があった。
 句はふとした時に出来ることが多い。後年、議員になった時、そば屋などで色紙をもってこられることがある。そういう場合、その場で一句読んで書いていては、㐂(よろこ)ばせることがあった。
 「梅一輪 酒三合 ごろ寝かな」もそうした場合に認めた句で、これは、私の少々気に入りの句で、あちこちの店に今でも残っている。
 枕元に日頃本を並べて寝入りばなに眠り薬のように拾い読みしているが、俳句と川柳の本が一番いい。本のページのどこをひらいてもいいからである。別に読み通す必要もない。楽しみである。
 
 


戻る