back | 代表理事
相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2013.06.27リリース |
第百四十三回 <本の虫> |
子供の頃から本の好きだった私は、一高に入った頃から一時作家志望だったこともあるが、とにかく本が好きだった。
学生の頃は、神田の本屋街は無論のこと、本郷、早稲田、三田などの学生街に、又横浜に住んでいたので伊勢崎町に古本を買い求めて歩いていた。 学校に通っていたので、とても買った本は読み切れない。そのうち読もうと思った本約五千冊を遺して戦地に出征した。 当時はマルクス・エンゲル全集などは言うまでもなく、岩波文庫の「カントとマルクス」という経済書もマルクスと一言が入っているばかりに所特者を警察が取り調べるという状況であった。私は、いつかマルクス経済学も勉強したいと思っていたので、その関係の本を一つの本箱一ぱい集めていた。 横浜の古本屋で専らその関係の本を秘かに取り扱っている一軒があった。その主人は、もっぱら裏日本の、北陸あたりから仕入れてくるという話であった。 学校の仲間にも頼まれてマル・エヌ全集(高畠素之の訳)も何セットも買ったし、レーニンなどの著作集も買った。 出征の日、もし何かあったら、この本箱の本を全部焼いて処分をしてくれと母親に頼んでおいた。しかし、二十年三月の米軍の大空襲で西竹の丸の家は全焼して了ったので、本は自然と処分されたようなものになった。 父は、本の中でも法律に関するものは私にとって一番大事と思ったのか、重いのに拘わらず、二百余冊、本屋の高田に食糧調達に行く度、背負っていって保存してくれた。戦後、それらの本が自宅に戻って来たが、法律も戦後GHQの指示もあって、かなり変わったためにそのまゝ役に立つことにはならなかった。今も地下の書庫に眠っている。 ともあれ、戦火の跡をみては、もう二度と本を買い集める気はしなかった。 学生時代、本を買う金を得ることも一つの目的で、高校、大学を通してアルバイトをしていた。大学受験生に数学を教えて、親から貰う月々の学資にアルバイト料を加えて、半分以上本代に充てていたので決して学生として少ない本代ではなかった。毎月二〇〜三〇円は本を買っていたろう。 ともあれもう本を買う気がなくなったので何年間は本当に当座必要な本だけを買い、あとは図書館の本を利用していた。 しかし、本来の本好きは治まるものではないとみえて、懐が少し温かくなるとともに読みたい、と眼についた本を買いまくっていた。 文芸書が主であったが、仕事の関係も美術書も買った。毎月、本屋の支払いが二、三十万を超えることもあった。 さて、それの本の置き場である。成城の家がボヤに遭って、数年後に鉄筋に建て替えた時、思い切って地下の一部を書庫とし、スライディング式の本格的書架も造りつけた。二万冊は収容できるようにした。 買った本以外、維詩など送られてくる印刷物もかなりの量になる、週刊新潮、週刊文集は四十年間以上も毎号必ず買っていた、数千冊にもなる。 残された寿命の間にどれくらい読めるかわからないが、多分大部分は読めない、と思われるので、この資源を学校の後輩に活用して貰うことを祈願して、私の出身校、神奈川県立横浜第一中学校(昔は神奈川県にあるたった一つの中学校で神奈川中学校、略して神中という)(現在は県立希望ヶ丘高等学校)に寄附することにして、学校側と受入れについて話もつき、目下ポチポチ蔵書の一部づつを運んでいる。 今、世の中はペーパーレス時代に変っているという。確かにそうだろと思う。然し、本の形は一覧性に富むばかりか、それ自体文化の貴重な産物であることは、エジプトのパピロス時代から変わっていないところもある、と思っている。 所詮、遠い将来には本自体の物理的存在に変化が起るにしても、それまでの間、私の蔵書も少しは人様に役立つことを念じつつペンを措く。 |