back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.06.27リリース

第百四十一回 <人生の転機>
 ふりかえってみて、人生の転機がいくつかあった。あゝすればよかった、こうすればよかったという反省ではない。
 結局、今日の日に到っているのは、私の運命だと思っている。
 然し、途中いくつかの転機があった。ポイントがあった。転轍機があった。そこを右に切らずに左にきっていたら、どうなっていたか、ふと考えることがある。
 
一、  一高を卒業する時、作家で暮そうとした。結局、才がなさそなので諦らめ、東大英文科ではなく、法学部政治学科を選んだこと。
二、  東大を卒業し、入省試験で、友人細見と話し合って、一緒に大蔵省に入省した。
 彼は、私が一緒に大蔵省に入るのでなければ、農林省に、私は外務省に入っていた。私は、ギリギリまで大蔵か外務か迷っていた。
三、  歩兵第十二旅団司令部から第三十四軍司令部(経理部)に転じる前、身深少佐などに推められて法務部転科(高文司法科試験を合格していた)の手続きをとった。経理部庶務将校に転任後、陸軍主計少尉から法務少尉に転科する辞令を受け取ったが、経理部長新居大佐、高級部員岩上中佐に説得されて諦めた。
四、  第三十四軍司令部が北鮮に転進を命じられた時、私は第六方面軍に所属換えとなる予定の経理部調弁課に残留するのではなく、司令部と一緒に転進部隊に加えて貰ったことへ(北京にいるフィアンセに最后に一目会いたかった)。
五、  エラブカのラーゲリで無警戒のためドイツ軍将校フォーゲル・ジンガーがと親しくし、生兵法はケガのもと、いささか不充分なドイツ語会話のせいもあってか、本当は共産党のスパイとなっていた彼の密告で四ケ月もカザンの監獄の独房で取調を受けた。エラブカの部隊が二十三年春にラーゲルを離れる時、日本人部長のクロイツエル中尉(女)の好意で再調査を受け、やっと最后の梯団に入れて貰った。私の文学好きが役に立ったのである。
 取調の容疑は、@官名詐祢、(本当は主計少佐なのに少尉と詐っている)、耺名詐称(本当は軍の貨物支廠長であったのに司令部経理部勤務と詐つている)、本当は軍の貨物廠の支廠長として中国人のパルチザン部隊を抑圧していたことの三つであった。ことごとく間違っている、と抗弁しても(タタール自治共和国の内務次官―取調官)、ウソ(ネ・プラウダ)を繰り返し、取り合ってくれなかった)。
六、  エラブカラーゲリからカザンのラーゲリを経て、長いシベリア鉄道の二十三日間の間、考えに考え抜いた末、大蔵省を辞め、弁護士として働く決心を固めた。二十七人、昭和十七年の秋に入省した同僚は大部分、海軍又は陸軍の軍務についたが、戦死した数人を除き、六年も経って最后の一人として帰還したのは私であった。
 今頃ノコノコ戻っても、人の後について行くしかない。ならば、思い切って役所を辞めようと固く心に誓ったのである。
 ところが、家に帰って翌々日大蔵省に挨拶に行ったら、河野一之官房長、大月高文書課長から、直ぐ戻って来いよ、明日からでもいい、同期の者と待遇は一緒にするからとこもごも有難い言葉であった。
   戦前の制度では高文司法科の試験に合格すれば、直ちに弁護士登録が出来たが、戦後、GHQの指示で、司法研修所での二年間の研修が必要となった。私は、既にフィアセを持っていたし、彼女の一家も北京で留用(中国(東)されているし、戻れても研修生の安月給では家庭もてないのだろうと思われたので、固い決心のつもりが、一夜にして崩れ、大蔵省に戻ることになった。
八、  昭和十七年九月大蔵省に入省した時の配属は、主税局国税一課であった。当時、判任学士と呼ばれ、身分は判任官であったが、省内は食堂も便所も高等官扱いとなっていた。エリートの取扱いである。
 神中先輩、松隈秀雄氏(後に大蔵次官)の配慮があったと思う。
 昭和二十三年八月復員し、省に戻った時、主税局の課長補佐のポストは急には難しいので、国有財産局賠償業務課の首席事務官になった。引揚げポストと言われ、前任者は十八年入省の稲村光一であった(後、財務官)。ここは半年余で、下京税務署長となった。大月秘書課長はいろいろ気を遺ってくれて、同期は既に地方局の部長になっているので、君にも部長のポストの空くの俟っている、といわれたので、どうせ遅れついでに税務署長をやらして欲しいと返事をしておいた。その一週間ぐらい後に下京税務署長の後任にどうか、との話で、京都ならと思い。一もにもなく承知した。
 ここは半年足らずの勤務で、二十四年九月、急に主計局へ転任という辞令が舞い込んだ。逓信省担当の主査で、前任者の矢部が急に出身の運輸省に戻ることになって空いたポストであった。郵政・電気通信の二省にGHQの命令で分割された直後の両省の予算を担当した。
 それから私の長い予算屋生活が始まった。特別機関係、労働係、文部係を主査で六年、総務課補佐、文部、地方財政、農林担当主計官と合わせて九年、法規課長、総務課長で二年。
 この間、予算の仕事に不満はなかったが、他の局の仕事もさせて欲しいと人事に関する年一回の希望調書には書いて出していたが、全然とりあげられなかったので、腰を据えて予算に取り組むことにした。これが、私の事務次官ルートに繋がることになった、と思う。
 そこから、近畿財務局長二年、主計局次長三年、経済企画庁官房長、理財局長、各一年、主計局長二年、事務次官一年で卒業した。仕事から政治の世界に接觸することが多く、主計局長の先輩も佐藤一郎、村上孝太郎、鳩山威一郎とあいついで国会議員となった。
 私にも当然のように出馬の声がかかった。企画庁の官房長の時、藤山愛一郎氏から澄田官房長を通して横浜市長(現職は神中の先輩、社会党の飛島田氏)、神奈川知事(小林与三次を通して津田知事の後任)、村上議員を通して、全員一致だから、といって大分県参議院議員、静岡県衆議院第三区議員は大蔵委員長足立篤郎氏が自分の後任として、大阪第五区衆議院議員の松田竹千代氏議員から福田大蔵大臣に再三。(秘書課の首席事務官の時次席として机を並べていた木野君がどうしても出るというので断る)、東京都知事。
 それは田中角栄総理、橋本幹事長ラインで、家内まで党本部に呼んでの談判。美濃部知事で勝算が乏しい上、私は、国会議員になりたかったので断る。相沢か石原慎太郎かという話で、田中総理に金がないと答えたら、君なら十五億円、石原なら三億円だす、と事もなげな総理の詞であった。鳥取県は最初は田中総理から参議院選に出ないかという話、当時県会議長を務めた土谷栄一を県連が公認候補として党本部に推薦して来たが、到底彼では勝てないと判断し、公認を拒否した後であったので、彼が身体を張って反対するという。
 田中総理は徳安県連会長に私で候補を纒めるように軍資金を渡して工作させているという話であった。とこらが、他方藤山愛一郎氏からは立候補を強く薦められていた。氏の曰く。佐藤氏が参議院選に出るとき、戦前神奈川県で課長を務めたことだけの縁しかない彼を自民党市連の会長として当選に向って努力した自分に何の断りもなしに衆議院議員候補としてなぐり込みをかけてくるような男は絶対に許せない。自分は純粋のハマの出身ではないし、相沢さんが立候補してくれるなら、藤山派は挙げて応援するし、貴方が出てくれないなら、後援会は解散するという大へんに有難い言葉であった。
鳥取県は、私自身は親類縁者全く身寄りがないので、そんな強い反対があっては出るわけにゆかない、と固辞した。
 軈て、大蔵省を事務次官で卒業し、虎の門に事務所を構える。縁起をかついで、八月十七日十七時十七分、第十七森ビル、十七階の部屋で、甚だささやかな、賑かな開所式であった。一七は昔から私のラッキー・ナンバーである。さて改めて選挙区をどこに決めるか、である。
 神中後輩の朝日新聞の桑田(後テレ朝社長)やら何やらいろいろな人からの情勢を聞いたが、横浜は前に述べたように藤山愛一郎氏が強く薦めてくれた。
 私は、田中総理にも福田大蔵大臣にも相談をした。田中さんは、自民党の選挙は中選挙区でせり合って強くなるのだから、横浜から出たらいい、という意見であった。福田さんは佐藤氏が彼の派に入っているせいか、選挙区は鳥取のような田舎がいい、出るのは大へんだが、一度出ると続く、という意見であった。鳥取には、福田派と言われた島田候補がいたが、福田さんは表面はともかく余り評価していなかったようだ。
 悩みに悩んだ。佐藤氏自身、二度も私の事務所を訪れて、横浜は是非自分にやらせて欲しいとの頼み。主計局からずっと彼の道を、その通り歩いて来た私だったので、先輩に済まない気になりかけていたし、鳥取県連は挙げて応援をする、赤沢議員自身からも後任者として強い要請があったため決心することにした。一つの大きな人生の転機であった。私の亡き妻の父が鳥取県出身であったことにも縁を感じていたし、山陰の人々、例えば結婚式で葉子の親代りを務めた元島根県知事の田部氏も中海干拓事業の着工の件で再三会っていたこともあった。平田の市長木佐氏とも予算の関係で知っていた。彼も葉子の姻戚であった。
 この選択がよかったのか、悪かったかはわからないが、ともあれ私はとっの大きな人生の転機であった。
九、  昭和四十九年十月十五日米子市の皆生で自民党公認候補として衆議院議員に出馬宣言をしてから五十一年の第一回の当選、連続九期当選。第十回目の選挙で敗北した。何といっても年令が問題だった。親しくしていた山中貞則議員から、もし当選していれば、お前が最高年令者として衆議院議長就任者にお祝いを言うことになっていたのに、俺がやることになった、笑いながらとボヤいていたのを思い出す。
 幸い、国会議員を五年以上勤めれば、司法研修所における研修を実質免除するという法律が二十年ぶりに成立していたので、その第一回生として短い研修を受け、虎の門に法律事務所を開いた。
 いくつかの人生の分岐点を経て今日に到っている。ポイントを反対に切っていたら、今頃は何をしているのだろうか、と考えることは無論ある。
 しかし、過ぎ去ったことは二度と繰り返しえないのが人生であり、又、分岐点で今の道に選んだことに偶然と言える要素があるにしても、それが天の配剤であったのかしれない。つまり、本人にまつわっている運命なのではないか。
 又、徒らに懐古しても、何等事態は変らず、益のないことではないか。
 
 
 


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