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相澤英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2013.06.20リリース |
第百三十九回 <減反政策> |
昭和四十五年ごろだったと思う。米は確実に余るという状態が見込まれたが、長い間米の統制を受けていた農家はコメの全量買上げを権利として譲らない態勢になっていた。
そもそも米の統制は乏しきを分かつ考え方のもとに国民に最低必要量を配給することを目的として戦時中に発足したものであるが、およそ配給制度の末路は生産者のための制度と変容することだと言われている。米とても例外ではなかった。 対策についての議論の末、農家は米の減反をすることとし、減反について補償することになった。 当時、主計局次長としてこの問題を担当していた鳩山威一郎主計局次長は隣りの次長室の私に「なァ、およそ補助金というのは、何かをすることを奨励するために出されるものなのに、これは、何にもしないことに対して補助金を出すという、言わば空気に補助をするようなものだなァ」と自嘲ともとれる言葉であった。 不耕作田に対する補償は流石一年で終って、それからは転作田に対する補償に切り替えることにしたが、種子をパラパラと田圃に撒くだけのところもあり、パラ転などと言われた。 供出が義務であったから、今度は耕作が権利だ、という考え方であったのだろう。 私どもは、全農を頂上とし、県連、単協とピラミッドを形成している米の売買組織を崩し、農家による米の自由な売買を実施できないか、随分関係者間で話し合ったが、結着はつかなかった。 そこで、漸進的な方法として、単協による米の売買が出来るようにした。自主流通米の制度の発足である。 まことに生ぬるいし、中途半端な形であったが、これすらも桧垣食糧庁長官の踏み切りがなかったら実現できなかったかも知れない。 これより以前、河野農林大臣が農業系統組織、とくに金融の組織を崩すために、米の代金の支払いを農中を中心とする系統組織以外、つまり一般の市中の金融機関にも取扱いが出来るよう改正することに着眼し、努力したが、彼の剛腕をもってしても成功しなかったことを思い出す。農民組織の票は、とくに保守政権にとっては強大な力を持っていたのである。 全農の組織は丹頂鶴と呼ばれていて頭は赤いが身体は白い、ともみられていたが、鳥取県のようなところは逆丹頂鶴であって、自民党の本当の票には必ずしもなっていなかった。 今になって反省することが少なくない。 米の流通組織にもっともっと変革の手を加えられなかったか、である。更には自作農維持創設以来の農地の所有、使用、賃借などの権利関係について、自然の流れに応じて変更することができなかったか、である。 農業の近代化を推めるためには企業の参入を、そして株式会社制度の導入をもっと早く認めるべきであった、と思う。 全農も農業について本来の技術的指導の立場を離れて、金融、共済等の事業に本体を移しているような状態から、もっと早く脱却することが必要だったのではないか。現状の固守に執着する余りに近代化に向けての前進ができなかったのでは、なかろうか。 いろいろ考え方はあるにしても、私は、農家の所得保障の制度は後ろ向きのものであって、採るべきではない、それだけの金があったら、農業の近代化のために投ずべきものではないか、と思っている。 農地の転用を徒らに阻害する農業委員会の制度も廃止すべきではないか。少々の役徳を企業からうけているばかりに止められないという批判は当たらないにしても、今や存在の意義は乏しい、のではないか。 ともあれ、農業に関する既往の諸制度は早急に改革すべきであると、過去にいささか深い関心をもってこの問題に携って来た人間の一人として、深い反省をもって思うものであるが、諸賢如何。 |