back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.06.12リリース

第百三十六回 <記憶>
 自分の生れて世に出た時のことを覚えている、と書いたものに出遭ったことがある。それは多分嘘だと思うが、さて、子供の頃の記憶はいつに始まるだろうか。私の場合も、切れ切れではあるが、二,三才のときからあるような気がする。もっとも、これは多少怪しいので、母親などから聞いていた話が、いくつかしら、自分で見聞きしたように思っていることも混じっているかも知れない。そのつもりで読御承知いただければ結構である。
 私の生れた大分県宇佐から父の転勤で移り住んだのは新潟県高田市である。日本でスキー発生の地といわれ、まことに雪深いところであった。丈余の雪は二階まで届く。下は隣りとの通行のための通路となっている。二階の床が張り出して通路の屋根となっていた。
 そして朝、雪に反射して目にギラギラと輝やく雪の道を早く起きた大人たちが、雪を踏み固めて子供が登校できるように道を作るのである。その道には、二階の窓を開けて出たように思う。
 そして、春、固い雪を大きな鋸で切って氷室に運び、夏に氷のように使う、と覚えているが、本当に自分で見たものだろうか。
 高田から群馬県の桐生に移ったが、どうもこれは記憶していない。隣りが陸軍の連隊長の家だったと母親から聞いたような気がする程度である。
 ここは短い期間の住いであったが、次に住んだ愛媛県は大洲の町、ここはもう大洲小学校の附属幼稚園に通っていたから、かなりいろいろなことを鮮明に覚えている。
 後年、主計官の時に何かの視察で久しぶりに現地を訪れた際、何もかも昔のままの姿が残っているので懐かしかった。ただ、「鍛冶屋」がなくなって、後が「かしや」になっていたりの変化はあった。
 大洲から故郷横浜に引っ越したわけであるが、長浜から船に乗って今治に入り、それから瀬戸内海を東に、神戸に入った。神戸から、どこをどうと通ったかは覚えていないが、奈良に泊って春日神社にお参りし、鹿と一緒に写真をとったことは覚えている。その時何故かつき出した手の指を五本とも拡げていたことを妙に覚えている。
 東海道の三等の列車にゴロゴロしながら寝ていて、夜中に何べんも落ちて、両親にしかられたことを思い出す。長い汽車の旅であったと思う。
 大洲での思い出は少なくない。
 中学の英語の教師をしていた父に毎日母が弁当を届けさせる。それを中学の悪童どもに見つかってからかわれる。嫌だった。父は毎日のように放課後テニスをしていた。それを見るのは楽しみであった。当時はまだ電灯がなかったか、上充分だったが、私はよくランプのホヤ磨みがきをさせられたが、新聞紙で磨くうちにいくつも壊して叱られた。裏は石槌山脈が迫っていて、時に切り出した石が家の前に並べられていた。ある日、その石に登って、鋭い先で手の指が血だらけになり、アルコールで洗って貰ったが、とても痛かった。
 近所に立っていたガス灯に石を投げたら命中したガラスもろとも壊した了ったこともある。隣りの家の中学生が英語を習いに来ていた。いつも、その肩につかまったりする。そのお兄ちゃんには、自分の家の庭に柿の木が一本ある、そこえ銅の皿みたいなものを吊して当時珍しい空気銃で打って楽しんでいた。私にも打たしてやるから、もう肩に登らないでくれという。
 近所に鍛冶屋があって、毎日馬の蹄鉄を打って、取りつけている。その火花が綺麗でいつまでもうずくまって、馬はカネを釘を打ちつけられても痛くないのかといつまでも眺めていた、と思った。
 幼稚園に通うのが大嫌いで、母が困って女の先生に毎日迎えに来て貰った。その先生は毎朝私の手を引いて同僚の男の先生の家に寄る。
 そこで、家の中に入って暫らく出て来ない。私は川のほとりの葦の芽をつみながら先生の出てくるのを待っている、小さい手に一杯、溢れる程になる頃、二人が現れる。幼稚園には遊動円木とブランコ、平均台があったくらい。
 夏の宵、肱川にホタルが光っている。圃羽をもって追い、運の悪いホタルを何匹か虫籠に入れる、青い沙をすかして、呼吸をするかのように断続的にピカー、ピカーと光る。しかし、その光る身体は何故冷いのだろう。
 駅馬車が街中を走る。二頭立で御者台の両側にはランタンがぶら下がっている、夕暮れのもやの中をランタンの黄色の灯を曳くようにふりながら馬車は行く。
 すべて、なかったような気さえする昔の街の絵である。
 家は珍らしい町営住宅であった。家は崖の上、崖の下には広い原っぱがあっただけ、あんなに広いと思っていた原っぱは本当に狭いものであった。子供の頃見たものは、身丈に合わせて覚えているものだと思った。
 家に畑が続いていた、キユリが沢山竹の竽にからんでなっていた。なすも黒々と光っていた。
 横浜に移ってからのことはいずれ又、書くこともあろう。
 
 


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