back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2012.08.23リリース

第百三十一回 <八月十五日>
 又、八月十五日が巡って来た。終戦記念日である。日本の運命を分けた日である。前の年昭和十九年に暮れに私の勤務していた第三十四軍事司令部のあった中支漢口に来た大本営参謀から、日本はもうダメだが、最後のふんばりで、買えるだけの物を買って日本に送ってくれという話を聞いた。二十年に入ってフィリピンでマニラも陥落した報も入っていた。軍司令部には大本営通信なる通信部隊があって、大本営との連絡通信に当っていたが、それよりもわれわれは、その部隊がキャッチする米軍の短波放送に関心を持っていた。いわゆる大本営発表の戦果などはもう全く信じられなくなって、専ら米軍放送で情勢の判断をしていた。
 第三十四軍は二十年の六月末、北朝鮮咸鏡南道の咸興に転進を命じられ、七月七日盧溝橋事件の日にその橋を軍用列車で通過をした。
 咸興についた私達を俟っていたのは急遽編成した軍の駐屯体制の整備であった。編成完結が八月六日となっていて、部隊の人員は概ね揃ったものの、宿舎、装備などの整備はただ混乱していた。われわれは、日夜ただ一生懸命に仕事をこなしていた。われわれ若い将校の大部分は大学や高等専門学校を繰り上げ卒業して来た学徒動員組であった。われわれは大東亜戦争の始まった頃から軍部の暴走には極めて批判的であったし、戦争の早期終結を期待していたが、日常の勤務は決しておろそかにはしなかった。開戦には反対しても、一旦戦争となってからは、別である。若さを発揮して力一杯働こうという気持であった。矛盾しているぢゃないか、といわれそうであるが、そうではなく、職業軍人みたいに軍隊における立身出世を夢見ていないだけに精一杯純粋な努力をした、と思っていた。
 宿舎は空いた学校の校舎を借用するなどしたが、被服、物品の主任将校であった私は、先ず炊事用の薪の確保に不自由した。北鮮の山は裸山のようなところが多く、結局目をつけたのは民家の囲いの板塀であって、それを買いまくって薪にした。日々の食糧品の調達もままならぬ状況であった。
 北朝鮮は鉱物資源などに恵まれているというが、山が多く、水田は少なく、住民の生活も楽ではないようであった。
 われわれは漢口から咸興へ移駐を命じられた時、米国の朝鮮半島上陸作戦に備えるものと思っていたが、現地についていろいろの指示を受けてみると、そうではなく、ソ連軍の侵入に対して備えをするためであることが次第に明らかになって来た。ソ連軍が侵入してきたら、山に籠って闘う。そのため天幕四万張、毛布十五万枚、ストーブなどの用意をする。ソ連軍の軍服一万着を用意するという意図明らかな指示もあった。これから冬に入るのに本当に大丈夫なのかな、という思いがあった。何しろノモンハンの戦闘で示されたソ連軍の近代化兵器の質量は、よくわからないながら、脅威の的であった。
 漢口を軍司令部の要員が出発した頃は、軍司令部は満州のハルビンに移駐するという噂であった。ハルビンはロシア風な綺麗な町で、白系ロシアの美人に会えるし、キタイスカヤなど美しい通りもあるということで、何となく期待を持っていたのに、北京の方面軍司令部で、いや行先きはハルビンではなく北鮮だと聞かされた時には、皆がっかりしたものであった。軍隊で行く先など、そもそも極秘事項であるから、こういうことも珍しくはなかった。
 牡丹江から重砲一ヶ大隊が来たし、自動車連隊も来たが、将校の乗る馬には鞍がなく、毛布を使っていたし、重砲には一門につき弾丸が四発ぐらいしかないという。いわば半出来の軍であったから、本当にこれでソ連軍相手に闘えるのかな、と思った。
 八月十四日の夜、咸興を出発した私は、新京の関東軍司令部、奉天の貨物廠、大連の貨物廠の支廠などを訪ねることになっていた。関東軍の隷下に入った第三十四軍の司令部部員としていろいろな打合せをし、毛布などの被服物品を受領するためであった。
 十五日未明京城(現ソウル)に着いた私の眼に入ったのは「本日午後重大ニュースの発表あり」という貼り紙であった。うす暗い光の中に白々と浮かんでいたその貼り紙を見た時、私は、あっ戦は負けた、終戦だな、とピンと来た。
 それでも一分の疑念を残して、朝鮮軍経理部が移っていた龍山の高等女学校に設けられた重大ニュースの発表会場に臨んだ。
 運動場のテーブルに置かれたラジオから終戦の玉音がかなりハッキリと流れていた。しんと静まりかえった校庭にすすり泣きの声が次第に高くなって行った。空には米軍のP‐三八が二機、白い飛行機雲を曳いていた。その晴れた空の真っ青な色は忘れられない。
 ああこれで戦争が終った。もう何も彼もダメになった。戦争で死んだ戦友の顔が次々に思い浮かぶ。ああ、あれたちの死は一体何だったのか。後に続く者を信じて彼等は逝った。私は僅かな幸運で死を逸れたこともあった。
 軍司令部はてんやわんやで、京城の師団司令部もどうしていいか、わからない混乱であった。当り前だ。負けた経験がないもの。
 気の抜けたような身体を動かして本屋に寄って、読みたかった本を二、三冊買った。やっと、これで死ななくて済んだという、何とも言えない喜びもこみ上げてくるものがあったが、どうしていいか、考えがまとまらない。
 宿の備前屋の主人は、四十年もかかってここまで来ましたが、もう終りです。今日は私がおごりますから、心ゆくまで飲んで下さい、という。
 銚子を十数本も倒して、父母、きょうだい、親友などに葉書を書いた、このまま釜山へ走って内地へ帰るか、当初の命令どおり関東軍の司令部のある新京、貨物廠のある奉天に行くか、或いは又許婚者のいる北京に行くか。いずれにしても、もう軍隊は瓦壊したのだから、咸興へ戻ることはないとおもっていたところへ、同じ司令部の法務部の将校二名が部屋にきて、皆目様子がわからないから、とに角、一度、親元の軍司令部のある咸興に帰ろうと思うという。
 そこで、一瞬里心みたいなものにつかれて、その二人に同行し、激しい雨が降る中を汽車に乗って三十八度線を越えたのである。大失敗であった。運というのはそんなもんだ、と後々いくら悔やんだか、分からなかった。
 ソ連兵が大きな戦車や自動車、トラックもろともなだれのように侵入してきたのは、それから一週間近くも後であった。
 朝鮮人は一夜にして日の丸を改ざんしたような国旗をもって、戦勝国だと呼号して町中を歩いている。何が戦勝国なものか、いつ日本と戦ったか、と叫んでみたところで、状況は変わるわけのものでもない。
 八月十五日、決して忘れる事の出来ない日である。
 そのあと昭和二十三年八月十四日、本当に丸三年ぶりで舞鶴に上陸するまでの三年間の抑留生活が俟っているとは露知らなかったのである。運命の分かれ目は、ひょんなところにあって、われわれの拙い計算をあざ笑うかのごとく気まぐれである。
 
 


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