back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2012.08.17リリース

第百二十九回 <シベリア鉄道復権>
 昭和二十年八月十五日の終戦後、北朝鮮咸鏡南道の感興に駐屯していた第三十四軍軍司令部勤務の主計将校であった私は、担当の被服・物品に関する在庫調書を添えて現物一切をソ連軍に引き渡した。その後約束に反し定平の収容所に入れられ、十月の始め興南の港から、ダモイ・トーキョウ(東京へ帰る)と騙されて乗船、ナホトカ軍港に上陸。雪中行動でクラスキーノ着。
 そこで酷寒の中一ヶ月のテント生活で、薪にする灌木も手に入らなくなった頃、十二月初旬シベリア鉄道の貨車に抛り込まれた。それからシベリア鉄道二十三日間の旅が始まった。
 学生の頃、チェホフの「シベリアの旅」という作品を読んだことを思い出していたが、とに角シベリアの大地の広大なことを充分思い知らされた。
 われわれの列車は勿論定期列車ではないから、途中の駅に停車する時は、永い時は一日も、短い時でも石炭と水を補給するため二、三時間は停車する。
 そして走り出したら五、六時間も全然止まらないで、ひた走りに走る。時は、シベリアの十二月。寒いこと、寒いこと。零下五十五度も体験した。手袋なしでいたら、手先はたちまち凍ったようになる。金属に觸ったら瞬時にピタッとはりついて、無理に引き剥がすと皮膚が剥ける。小便をしたら着地した瞬間に凍る。少しも臭わない。指が凍傷になったら白く固く冷たい棒きれのようになって、まるで感覚がなくなって了う。そこで急速に温めてはいけない。腐って、指を切断しなければならなくなる。そんな眼に遭った人はいくらでもいる。現に私の友人の将校は八本の指を失い、残る二本の指をじっと見ては涙ぐんでいた。私は、左の小指が凍傷になった。確かハバロフスクの辺であったと思う。凍った指を手袋で一時間くらい一生懸命こすって、やっと血の気が戻って来てやれやれと安心した。もっとも、その後も、寒い所で手袋を外すと、直ぐその小指が凍りかけることがわかった。一度凍傷にかかると何か組織が変ったようであった。
 シベリア鉄道はとにかく長い鉄道で、完成したのは一九〇四年九月であった。単線であったために、日露戦争で兵力、武器弾薬の輸送が間に合わなくなったので、極東へ送った貨車を再び西部へ戻して利用できず、東部に着いた貨車は凡て焼き捨て線路の空きを作ったという。ちょっと、日本では考えられないような思い切ったことをしてくれたようである。
 シベリア鉄道は極めて長大である。シベリア方面では人の集まる都会こそあれ、人口はそこに集中していて、それ以外はまことに荒涼たるステツプ(大地)が果てしなく続いている。
 私は、給与担当の将校として、時分時に駅に着くと飯上げをやらされた。汽車は蒸気機関車であって、石炭と水の続く限り、地球の果てまでもつっ走って行けるような気がした。
 シベリア鉄道は無論広軌であるが、レールは百種以上に亘っているという。事実、私が注意していたら、レールにはアメリカ始め、各国、各地の製造所のマークが刻んであった。
 その上を、われわれの貨物列車がゴウゴウとまことに力強い音をたてて走るのである。
 初めてわれわれの乗る箱が貨車であると知った時は、この野郎、われわれ将校も牛や豚並の取扱いにするのか、と憤慨してみたが、乗って、走ってみると、わかったのは、寝台車でもない限り、通常の客車ではとても何日も何日も坐ってはいられるものではない、ということであった。
 貨車は車両の前後部に丁度蚕柵のような棚が作られていた。そこが寝床となる。そこへぎっしりと詰め込まれた。狭いこと狭いこと、並大抵の狭さではない。織り重なってやっと寝ることが出来たが、それも頭を揃えるわけにはならない。鰯の缶詰のように頭と足を交互に並べるようにして、やっと納まる狭さなのである。鼻の先に他の人の臭い足先が当ってきてとてもたまったものではなかったが、それも日が経つにつれて直ぐ馴れた。人間は本来動物であることがわかった。食物と水があって、排泄が出来れば、生きて行けるのである。
 その列車に積みこんだ食糧、その大部分は関東軍が蓄積したものをソ連が押収したもので、それにソ連側の支給物資が使われていた。ソ連のものといっても、砂糖はキューバの袋、ミート罐はシカゴ製であった。戦争中厖大たる援ソ物資が米国から運ばれたが、そのおこぼれとも言うべきものであった。援ソ物資は主として空輸で行われたと聞いているが、このような糧食は勿論、飛行機、自動車、兵器などあらゆる面にわたっていたと思う。米国製のマークをつけた現物を到るところで見るにつけ、米国の巨大な物資の生産力に今更ながら驚かされるとともに、このような国を相手に戦争を起こした日本の為政者の愚を改めて思い知らされるのであった。
 列車の中に持ち込んだ日本製の炊飯車で煮炊きを行うのであったが、何分、汽車が走っているために、炊事車の固定は何とかなるとして、揺れて熱い湯が溢れたりして、炊爨(すいさん)も容易でなかった。
 又、時々停車する駅で、石炭、水の積み込みと同時に食事の各車輛ごとへの配分を行うのであったが、これが又時間が短い時など、まことにてんや、わんやの騒ぎであった。
 私も軍の主計将校として終戦後も給与関係の仕事を押し付けられていたので、この食事の分配にもタッチしていた。抑留者にとっては、食物は最大の関心事であるだけに、その配分が公平か、どうか、皆が眼を皿のようにして見ているだけに、大へんであった。
 排泄も大ごとであった。貨物列車で便所がついている訳ではない。各貨車の床の真中に穴を開け、一寸回りをトタン板か、段ボールで囲ったのが便所で、その中で用を足すのである。穴の下はレールが走っている。シベリアの凍るように冷い風が吹き込んでくる。紙の配給などは無論ない。もう羞しいとか、何とか言う気もしない。衆人環視の中での用たしである。
 その二つの行事の他は、全く何もすることはない。行けども、行けども、列車はツンドラ地帯を走っているのみである。イルクーツクを過ぎたらバイカル湖のほとりを列車は走る。右手に巨大な湖の凍る水面が見えている。それが、丸一日走っても、同じ景色なのである。流石、聞きしに勝るスケールの大きさだと呆れざるをえなかった。
 貨車の中からは外は見えない。初めの数日間は隣同志で身の上話を繰り返していた。軍歌「戦友」のとおりである。が、それとても段々種が尽きてくる。あとは歌の練習である。軍歌は飽きるし、面白くもない。そこへいくと演歌である。毎日、毎日演歌の練習である。兵隊は歌が好きだ。しかし、あんなに歌を唱ったことはなかったと思う。もっとも、余り声を大にして歌を唱うと、さなきだにへっている腹が一層へるぢゃないか、など言い出すものも出る始末であった。
 われわれは将校集団であった。満州、北朝鮮、樺太、千島の将兵を千人単位の部隊に編成してシベリアを送りこんだのであるが、部隊編成をそのままにするのは得策ではないと判断していたのか、およそ六〇万人の将兵を再編した。勿論、下士官、兵が大部分であるから、それは千人単位の集団にして、極く少数の将校を指揮官として行動するようにすると同時に大多数の将校は一纏めにして収容所に入れた。われわれは、その将校収容所の中にいたのである。
 他にも多少同じような将校収容所があったと思うが、エラブガの将校収容所はA、B両ラーゲルに分かれていたが、合わせて将校約一万人を収容していた。
 収容所の中でのことは、別に書いているので、この程度にしておくが、われわれは、シベリア鉄道を結局ウラジオストックとキズネル、カザンとウラジオストックの間で往復したわけである。いずれも貨物列車であったが、往きは冬の酷寒の中、帰りは六月の終りからの暑い中であった。日数は往復とも二十三日間であったと思う。
 列車の走っている間に他の貨車、それも無蓋車に時々乗ってみた。日本の狭軌の線路と違って、シベリアの鉄道は広軌であり、走る時は凄いスピードになる。帰りは外は無論暑かったので、スピードを上げる列車の無蓋車に乗ってみたが、風を受けて、いい気持であった。シベリアの広野はまことに広大で、地平線の彼方まで山一つ見えない。日本では見られぬ景色で、その広大な地平線の彼方に真赤に燃えた太陽が沈んでいく眺めは荘厳と言ってもいいくらいな美しさであった。
 満州でも感じたことだが、地球が丸いということが如実に実感として分かるのは、日本では海であったが、シベリアでは広野であった。
 普通の旅客列車ではシベリア鉄道九二九七キロは特急で一週間かそこらかかると聞いていた。客車は殆んど見かけなかったが、貨車の長い列はよく見た。巨大な蒸気機関車が二連、三連で力強い走りをする。貨車の数を数えると二百両近いこともあった。その長い、長い貨車が三重連もの機関車に惹かれて走る姿はまことに壮観であった。
 貨車も大型で二〇乃至三〇トン積載したと思う。百輌なら二千トン・三千トンの貨物を積んで走るのである。
 近頃、地球温暖化の進行のため、北極圏の氷が解けて船の航行も可能となったので、北極圏を通るヨーロッパとアメリカの両大陸間の航路の新設、又、北極圏の地下資源の開発などが取り上げられているが、ここに来て、シベリア鉄道により物資の運搬を増強しようという企画も検討されている。南回りの航路によるよりも、この鉄路による輸送が遙かに時間の節約になるのである。
 ヨーロッパとアジアの両大間がもっとハッキリと鉄道による地上輸送の能力が増強されることが可能ということになれば、シベリア鉄道の利用度は刮目してみるべきものがあるに違いない。
 日本の鉄道技術は世界的にも有名である。シベリア鉄道の増強には力を貸すことができるのではないか。これ凡て商売のためである。
 昔は、シベリア鉄道のため、日露戦争で日本はかなり苦労をさせられたが、今はもう、そういう心配はしなくていいと思うが、甘いか。
 
 


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