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相沢英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2012.06.29リリース |
第百二十五回 <季節> |
毎朝起きると先ず二階の窓を開けて庭に向い、三度大きく深呼吸をすることにしている。
庭の木々は最高の繁りを見せている。桜の木が七本あって、うち三本が世田谷区の保存木となっている。百年は経っているだろうか。枝が伸び過ぎて、垣根を遙かに超え、道路を跨いで、隣家の屋根に障る、と区からの注意で、深く枝を切られて了った。 古来、「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」と言うではないか、と家人に文句を言ったが、植木屋が区に言われて切って了ったと、いうことであった。桜は切ると腐りやすく、梅は新しく出た枝を切らないと花が咲きにくい、からだと「故事ことわざ辞典」に書いてあった。 庭は、桜や梅、杏、梨、椿、などの木のほか、実に多種多様、まあ雜多な花が植っている。家人が駅の傍の花屋から折にふれて買い込んできたものが多いが、庭の隅に小さい温室があって、蘭の花の鉢が所狭しと並んでいるし、鉢ごと針金にぶら下がっている。 蘭は舞台の度に楽屋に贈られたもの、胡蝶蘭が多い。舞台が終った時、持って帰ることにしていたが、四百鉢も溜まってしまった。蘭は寒さに弱い。冬が近ずくと、応接間に運び入れることにしていたが、一杯になり過ぎて、人間様の居場所もなくなって了った。それで、思い切って小さい温室を一棟建てることにした。 ガラス窓を開閉できるように、扇風機で風も通るように、冬は暖房も入れるように。 昔、私の母親の里は湘南で、蚕とみかんの農家であった。お蚕さんと言って、それこそ人間よりも大事にされた。冬は蚕室に煉炭火鉢を入れ、夏は大きな氷柱を立てる。まさにお蚕さんと尊称を受けるにふさわしい待遇であった。わが家の蘭もそれに等しい待遇を受けているが、それでも枯れる花は少なくないようである。 花で知る季節。 暑い夏が過ぎ、むっとした庭の空気が少しづつ冷えてくるようになると、花は枯れ、木の葉が落ち始める。窓から見ると、空が一日ごとに広くなってくる。庭の落葉も昔のように派出に焼くことはならん、と言う。消防署がうるさいそうだ。木々の枝が葉を落して、次第に針のように光って来て、細かい網目を編むようになってくる。 葉に隠れて見えなかった木の枝の鳥の姿も次第に見えてくるようになる、鳥は木でさえあればよいということにはならず、好き好きがあるようだ、鳥同志のいさかいもある。庭に餌箱の小さなのを準備してある。思い出したように餌を撒いてやるが、雀が先に来ても、鳩などが来ると、逃げるか、順番を待って、近くで俟っている。 知識が乏しいので、鳥の種類もよくわからないが、時に緑色のインコが餌をついばんでいたりする、多分どこかの家を逃げ出して来たのではないか。 東京も昔ほど雪はみかけない。雪と言うと、昭和十二年の二月二十六日、いわゆる二・二・六事件の日の早朝の冬景色を思い出す。一尺以上も積っていたが、その雪を蹴散らすように近所の魚屋の兄ちゃんが、「大へんだ、大へんだ、総理も何も、みんな偉い人が殺されちまった」と息を切らして言う。あの日の雪の白さは忘れないが、もう昔ほどの雪は減多にない。 それでも、庭の木々に雪がかかることは年に二、三回ある。又違った美しさで、直ぐカメラを構えてパチパチとやる。 冬は長いようで短い。やがて、春が来る。 終戦の時、われわれの部隊は北朝鮮にいたので、戦後、不法にも抑留の憂き日に遭った。ボルガ河の支流カマ河の畔の寒村の収容所であった。冬はもう九月の終りにサラサラとした雪とともに始まる。零下二〇度までは戸外の作業をやらされて凍傷で手足の指を失ったものも少なくなかった。 そして五月、春が来る。花の芽は一せいに膨らみ、木々の若葉は一日一日伸びるのがわかる程の成長である。まさに春が来る喜びである。 学生の頃読んだトルストイの「復活」にシベリアの春の、それこそいっせいに花や葉の開く、何とも言えぬ、天地が明けるような、万物が光にみちた春の姿を唱っていたことを思い出した。 まことに、厳しい冬があるから、あれほどの春の来る喜びがあるのだな、とわかった。カマ河の氷は戦車が通れるほどの厚さであるが、春とともに、四発の重爆撃機が何機となく飛んで来て、毎日爆弾投下である。ズシーンと土地に響く爆音で割れた氷とともに河の水が流れて行く。やがて、下流から白い外輪船が遡上して来る。そうだ、それがダモィ(帰郷)トウキョウの前ぶれだ。 私には、春はボルガの船とともにある。 庭の木々の若葉が燃える時、花々が開く時、いつまでも、必ず思い出すのは、ボルガの春である。 若い娘たちが唱う。三人よれば三重唱だ、どうして、あの娘たちは、歌がうまいのだろう。長い、長い冬から解放された喜びが胸に溢れて、自然に歌になるからこそではないだろうか。 |