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相沢英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2011.10.24リリース |
第百十五回 <再びモスコウへ> |
この九月中旬全国強制抑留者協会の会長として日ロシンポジュウムへの出席、ロシア側官公庁の担当者との抑留問題についての交渉のため五日間の日程でモスコウに出張して来た。短期間の滞在で観光する余暇は全くなかったが、ここ十数年の間のモスコウの町の変革は著しいものであった。
おびただしい自動車の氾濫、ビルの乱立、ヨーロッパブランド店の進出、プチ・ラスヴェガスと評されたカジノ街の現出とプーチンの指令による撤去、街上物売りの消失。物価の値上がり、とくにホテル代の高騰は呆れかえる程である。 もともとソ連邦は数十の民族からなっていた。連邦が崩壊して十五の国に分裂をしたが、それでもロシアはロシア人の他多くの民族を抱えている。私が抑留されていたタタァル自治共和国の田舎ではロクにロシア語を話せない人が多かった。 日本語に堪能なあるロシア人に尋ねるとロシア語に土地土地によってなまりはあるが、日本の津軽と薩摩の人々の間のように言葉がわからないというようなことはない、つまり方言はない、ということであった。東西時差が十一時間もあるというような、のべつに横長い国の中でロシア語一つが流通しているというのは一寸信じ難いようでもあったが、確かな人の言葉、嘘ではなかろう。 戦後、北朝鮮からソ連に何のために拘留(拉致)されたか、今回のモスコウ出張でロシア側の役人に尋ねると、サァ・・・それはスターリン時代のことだから、われわれはよく知らない。戦争は九月三日まで続いたので貴方方は正に捕虜であると言う。われわれが戦争は八月十五日に終ったので、ソ連邦のポツダム宣言に違反しての日本軍将兵のソ連邦内への移送は何としても承服しがたいというと薄ら笑の表情である。 われわれが抑留されていた当時のソ連邦は社会主義の国であって、いわゆる経済五ヶ年計画に基づき計画経済が行なわれていた。国民の需要を予測して生産を行ない、それを公定価格で配給することを基本としている経済は末端においては既に破綻していた。 意図的に農民からは小麦を高く買い、パンをマガジン(小売店)で安く売る。農民はありったけの小麦を国に売って、マガジンでパンを買う、自分が食べる分を買うだけでなく、牛や豚にも食べさせるパンもである。 広い国土に散在している人々の需給を調節するのは容易ではない。価格の変動が物の需給を自然に調節するという資本主義の機能は全く働らいていないので、マガジンには、例えば鉛筆やノートの類いは全くなく、その代り床撒き香水のようなものが一杯並べられているのである。 もっとも、その間にあって売れそうなものはマガジンで買いあさり、それをバザール(自由市場)で高く売りつける、いわゆるヤミ商人が跋扈していた。ノートや鉛筆はいくらでもバザールで売られていたが、マガジンでの公定価格の十倍ぐらいの値であった。 収容所でのわれわれの仕事のかなりの部分は農耕であった。われわれにもノルマが課せられていた。護送兵(コンボイ)の看視下であるが、一メートル巾で一〇〇メートル位を耕すのがノルマだったろうか。われわれは九十九メートルをさっさと掘り、あと一メートルを残して畑の土の上にひっくり返り、空を眺めてアゝ腹が空ったなァなどと言って休む。三時間が来るというとあと一メートルをさっと掘ればノルマは完了である。その掘り方たるや工夫があって、先ずスコップで掘り返した土を先の方に裏返しにして乗せておく。こうすると、新しい土が続いて日にさらされいかにも掘ったように見えるが、実態は半分しか耕していないことになる。 コルホーズ(集団農場)やソフォーズ(国営農場)でのノルマもいい加減らしく、自宅の周辺一ヘクタール(ロシア語ゲクタール)の自留地の生産物は、自由に処分できることとなっているので、そこは一生懸命に耕し、豚や鶏を飼ったりして、コルホーズやソフォーズの実に三〇倍もの収穫を得ているという。人間、額に汗して手にするものが自分で処理できるとなれば、いかに本気で働くか、の実践手本を見せて貰った。 計画経済、社会主義体制はいずれ崩壊すると抑留中に感じていた。 しかし、自然の摂理に逆行した経済体制が長続きをするわけがなく、崩壊した。それ見たことか、と言いたいが、それにしても七〇年は試行期間としても長過ぎた。 現在のロシアは社会主義でもない。無論共産主義でもない。ソ連邦も共産党が支配していたが、共産主義国家とは言っていなかった。 ロシアは実質資本主義に復帰して、しかも事実上、一部の人間の独裁体制が続き、ますます強化されようとしている。豊富な石油その他の資源を抱えて、その収入に頼っているが、その富は一部に偏在し、失業者も多い。ヨーロッパでベンツの一番高い車が売れるのがモスコウであると言われ、国や党の幹部の豪奢な生活ぶりも洩れ伝えられている。 ロシアはどちらを向いて走って行くのか、よくわからないが、大いに関心を持って見まもっている。 十月十日付の朝日(朝)に「旧ソ連圏ロシア語回帰」という見出しが眼についた。ソ連邦が十五の国に分断されたのは、多年ロシアの支配下にあった異民族の独立運動の結果だと思っているが、その国々では、九〇年代の初め、独立を目指す民族意識の中でロシア語はソ連の道具と見られ、拒絶感が強まっていた。 『だが科学、技術、芸術などを民族語へ翻訳するには膨大な費用や人材が必要だ。そうでなければ「情報の孤立」に陥る。世界の「知」の八割はロシア語に翻訳されているとされる。旧ソ連諸国でつくる独立国家共同体(CIS)の諸国が世界につながる近道は、使い慣れたロシア語だった。』 ロシア語は世界の「知」とつながるツールである、ということからロシア語の教育の必要性が見直されている。又、中央アジアからロシアへの労働移民は一千万人近くなっているが、その二割は全くロシア語を解しないといわれている。 このような事情が旧ソ連圏のロシア語回帰の流れを強めているようである。言葉は重要である。この流れを軽視するわけにはいかない。 ソ連邦の分裂によりロシアから離れた国々において、倚らば大樹の本、再びロシアと一緒になろうとする国が表われるのではないか、と思っているが、全く僻目だろうか。諸賢如何に思われるや。 |