back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.09.26リリース

第百十三回 <モスコウ出張>
 短い日程であったが、全抑協の会長としてモスコウへ出張して来た。九月十二日出発、十六日早朝成田着であったから、正味三日間であった。
 去年は行かれなかったが、今回はいつもの通り国防省、外務省、軍事古文書館、連邦文書局などロシア連邦の諸官庁担当官との会議、戦後強制抑留問題に関する日ロシンポジュウムの開催、駐ロ日本人大使との懇談などの日程が詰まっていて、観光の時間は全くなかった。日ロシンポジュウムは東洋学研究所の幹部など主としてロシアの学者と全抑協幹部とのシンポジュウムで、抑留問題についての意見交換と相互理解の場で今回は二十三回目であった。
 三年に近いソ連抑留と毎年のソ連(ソ連解体後はロシア連邦)訪問とを通じてロシア人個人々々は話し合える仲になりうると思うものの、国としては隣国にあって共通の利害を持ちえない面があるだけに対立するところが無くならないのは残念であるが、認めざるをえない。その最大のポイントが北方領土問題であることは言うまでもない。
 四島については、今ここでは議題としないが、「日ソ共同宣言」(昭和三十一年)第九項がひっかかっていることは言うまでもない。東西の冷戦状態の解消となれば、日ロ間の経済協力も進める環境は出来ているものの、やはり何でもスッキリしないのは四島をめぐる領土問題のせいであるが、この抑留問題も未だ解決されていない。共同宣言第六項の請求権の相互放棄の條文の改訂を主張せざるをえない。
 われわれの今までのロシアとの折衝の重点の一つは抑留された、とくに死亡した人の名簿の提出である。
 六万人死亡したといわれているが、ロシア側から提供されたリストは四万余人であって、厚労省の調査による二万一千人の死亡者の名簿が当方にはあってロシア側に示してあるが、ロシア側からは確認されていないのである。ロシア側もそれなりに努力を続けているし、抑留者の各人別のファイル、七〇万枚のカードの提示などがあったもののなお不十分である。
 今回のモスコウ出張で、国立軍事古文書館長から輸送業務は内務省に属するが、輸送間に亡くなった人の名簿などが見つかったと聞いたので、関係文書のコピーの提供を求めておいた。多くは望めないが、新しい話で期待できる。
 ドイツはソ連領に攻め込んで戦い、最後に降伏しているだけに戦死者の数も多く、又輸送間の死亡者も少なくないので、その名簿も今調査を進めているということであった。
 残された遺族にとっては父が、祖父が、又親戚が一体どのように暮らして、どのように病気などによって死亡したかは、できるだけ詳細に知りたい切実な思いがあるのだから、少しでも、一人でも多くデータを提供して欲しい旨を重ね重ねも要望しておいた。
 名簿の提出は日ソ間の協定(一九九一年、ゴルバチョフ大統領来日時)に基づく義務であるが、未だと完了していないのは遺憾であるし、われわれは常に履行を要請しているのである。
 それにしても、毎年訪れているモスコウの町は変りようが激しかった。かっては政府や党の要人の車が我物顔で走るに過ぎなかった町の道路は今や車の洪水で、とくに朝夕の渋滞は甚だしい。しかも交通信号は極めて少ない。(もっとも私は、あれ程混むところでは信号がない方が流れが、いいのではないか、とかねてから思っている)。カイロや北京でも感じたことである。
 昔は、ウクライナ・ホテルの回りなどヤミドルを求めるあやしげな人が沢山いたし、町角には手作りの編物やら何やらを売るおばさん達が並んでいたりしたが、今は全然見当たらないし、欧米のブランド系の店があちこちに出ているし、ホテルも綺麗な新しいものが建っている。他方でプチ・ラスベガスといわれるほど通りの両側に並んでいたカジノの店がプーチンの命令一下でと聞いたが全然なくなったという話である。
 ソ連邦が一五の国に分かれたばかりでなく、この国は今や社会主義国の面影はなく、レーニンの銅像も見かけないし、スターリンのは一つだけ墓所近くにあるだけという。レニングラードの名称はサンクトペテルブルグに戻った。
 町の人に接する機会は殆んどないが、就職難と物価高を歎く声は聞こえてくる。一頃暴騰した石油の価格が下って、その収益に多くを依存していた国家財政も苦しいという。しかし、実態を知るためには、もっと勉び、調べる必要があろう。群盲象を撫でる類であってはならないと思っている。
 
 


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