back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.09.13リリース

第百十二回 <抑留問題について>
 この八月十五日は終戦六十六年目である。われわれは戦争はこの日で終わったものと思っているが、ソ連は、そして今はロシア(そしてソ連が分裂した国々)も昭和二十年九月三日まで戦争は継続していたとして、同日をもって終戦記念日としている。
 八月十五日をもって戦争が終結し、連合軍は外地にいる将兵を連やかに日本に送還することがポツダム宣言第九項に規定されているにも拘らず、ひとりソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、満州、朝鮮、樺太、千島に侵入したばかりではなく、八月十五日後も戦争が継続しているとして、六十万の将兵を戦時捕虜(ボエンノ・プレンヌィ)として、シベリア奥深くしに移送し、強制労働に服せしめ、六万人を極寒と飢えで死亡させるという悲惨な事態を招かせたのである。
 戦後自然発生的に抑留者の団体が結成されたが、全国戦後強制抑留補償要求推進協議会中央連合会という大へん長い名前の団体である。これは戦後不法に強制抑留したことに対する謝罪と抑留者の強制労働に対する賃銀補償を要求する政治団体であり、これと表裏一体を為すものであるが全国強制抑留者協会(略して全抑協)という財団法人が成立して、今日に到っている。
 私ども抑留者としては六〇万人もの将兵が戦後ソ連軍に不法にいわば拉致をされ、強制労働に服せしめられて六万人も死亡するというこの事実が、戦後の混乱期、しかも連合軍による支配下にあったにもせよ、余りにも問題として取り上げられていなかったような気がしてならない。
 例えば、文科省の検定に拘わる学校の教科書においても、近頃では簡単に事実を記載しているものが増えて来たが、以前は殆んど載っていない時期が続いた。私どもが団体として文科省に申入れを再三行ったが、教科書の検定は提出された教科書の記載に誤りがあるかないか、或いはせいぜい当不当を判じるだけであって、積極的にあれこれについて内容の記載を指示することはできない、という通り一遍の答弁であった。その裏ではいろいろな形で事実上指導が行われてることは国知の事実であった。共産党の先生が教科書を書いて、社会党の先生が教えている、という話がまことしやかに言われた時代もあった。
 近頃では、検定教科書の抑留の事実がかなり記載されるようになったが、一言も触れていないものも多くあるようだし、触れていても抑留の事実が二、三行書かれているだけで、その不法を難じたものは募聞にして見ていない。
 太平洋戦争の交戦国となり、ポツダム宣言に署名した国々から便船の整い次第多くの将兵、居留民が中国大陸から、南方からと送還されたにも拘わらず、ひとりソ連が終戦後、それも満州、北朝鮮、樺太及び千島から将兵をわざわざシベリア奥深く運び入れて、強制労働に従事させた意図は奈辺にあるか、今もってよくわからない、そう言えば、われわれがエラブガの将校収容所にある時、ソ連の経済五ヶ年計画に進んで協力をする、という一札に署名を求めたことを思い出だす。われわれは抑留者であって捕虜ではないが、例え捕虜であったとしてもジュネーヴ条約(捕虜の待遇に関する一九四九・八・一二ジュネーヴ条約)によれば、将校は強制労働に服しめられないことになっていると抵抗し、結局収容所における抑留者の自活の範囲内の労働には従事するということで署名をしたのである。農耕、炊事、パン焼き、洗濯、入浴、発電、自動車修理、伐木(ペーチカや炊事用)、運搬、病院、診療所、縫製、木工などの作業であった。
 シベリアの収容所では、自活どころか、炭鉱、土木、建築、伐木、その他の重労働に多くの兵が従事し、飢餓、栄養失調、TB、発疹チフスなどによって、抑留者の一割にも及ぶ死者を生じしめたことは決して忘れられない事実である。
 六〇万人もの将兵を一單位千人の部隊に編成し、次々とソ連内に送り込んだことについては、何等かの日ソ間の協定が双方の軍の責任者の間に交されたに違いない、それでなければもっと混乱が生じ、あれ程いわば整然と抑留にかかわる作業が行われる筈はなかったのではないか、と思う者は少なくない。
 当時の関東軍司令部とソ連の軍司令部との間の協定の有無についてかなりの年月の間いろいろ調べてみているが、未だに不明であり、当時の関係者は口を噤んで一言も語っていないようである。
 私ども全抑協の代表者は毎年のように日ソ・シンポジュウムの開催、日ソ間の抑留者に関する協定(平成三年ゴルバチョフ大統領は来日時に署名された)の履行状況の調査、督促などのためにモスクワを訪れているが、そのことについて外務省、軍事省の人々に尋ね、文書があったら見せて貰いたいと言ったところ、笑って、そんなものはないと思うが、もしあれば当然日本側にもある筈だから、見せて貰ったらいい、と言われた。
 何十年か経った文書の公開が各国で行われている。われわれもそれを待つしか仕方がない。あっても公開されなかったらそれ切りになったろうが、抑留者の多くの人が本当に疑問に思っている重要な一事である。
 今年も九月中旬にモスクワに出張する予定である。昭和二十年の年に微兵検査を受けて入營した人がわれわれの仲間では最も若く、今年は昭和で言えば八十六年であるから今年八十六才となる人達が最も若いということになる。
 日本に帰国した抑留者は五十四万人と言う。その中現在生存者は六〜七万人と言われるが、それこそ毎日のように亡くなって行く。
 私達全抑協の代表者の努力で全抑留者の個人ファイルの発見、マイクロフィルムによるコピーの作成、ソ連邦内収容所所在地における慰霊碑の建立、七〇万人のカードの発見、コピーの作成など行われたが、未だ死亡者二万人の資料の手入、墓地の維持管理,遺留品の返還など先に述べた日ソ間の協定に基づく約束も充分守られていない。又、ソ連抑留の事実を長く後生に伝える記録は一応完成したし、地方慰霊碑(二十四県)、中央慰霊碑も完成したが、今後も中央慰霊祭、地方慰霊祭、抑留展示会などの仕事は続けて行かなければならないと思っている。
 われわれは遅かれ早かれ、この仕事を続けることは出来なくなるが、後に続く人達に抑留の悲劇を長く記憶し、その霊を慰める事業をどのように継続してもらえるか、まだひとつ大きな課題を抱えている今日である。政官は無論のこと多くの人達の支持を切に仰ぐ次第である。
 
 


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