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相沢英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2011.07.11リリース |
第百八回 <望郷> |
流れ者の犯罪者である男がパリの香りを運んで来た運命の美女ギャビー(ミレーユ・バラン)に懐しいパリの街や通りの名を次々に言うだけで望郷の思いにかられ、出てはならないカズバの街を出たところを彼を狙う刑事に追いつめられた。アルジェの港の鉄格子にしがみつき、彼が見送っていることも知らずにフランスに向けて出発する船のデッキに立っている女にギャビーと叫ぶが、折からのボーという汽笛に手を両耳にあててふさいだギャビーに屈かず、男は隠し持ったナイフの刃を胸にあてて死んで行くという結末は何度もみても見飽きない素晴らしい場面であった。望郷とはうまく訳したものである。
望郷とは言うまでもなく故郷を思うことである。私は、戦後ソ連に不法にも抑留され、帰るあてもないまま三年の月日を極寒の地に送らざるをえなかった。まさに望郷の日々であった。 私が、ジェネノドリストクの病院に調査のため二〇人の将校とともに押し込められた入院生活はいつも腹の空いていることを除いては平穏なものであった。三ケ月近くいたであろうか。ドイツ、イタリア、ルーマニア、ハンガリィなど十三ヶ国の捕虜の将校達と一緒の生活であった。栄養失調とT・Bなどのために収客定数五〇〇人といわれたその病院で一冬に八〇〇人も亡くなったということを知らされた。毎日朝白布をかけた担架が窓の外を運ばれて行く。遺体であった。それを一つ、二つと数えるのである。寒い晩の翌朝は四人にも五人にもなった。 われわれの病室に看護士としてはたらいていたのがドイツの海軍中厨でフリッツ・ハァベアマスという名であった。英語がしゃべれたので、われわれとの会話も不自由ながら通じて、馴れてくると身の上話などをするようになった。彼はドイツ海軍の中厨であった。何故海軍将校がソ連の捕虜になったのか、と問われると、彼は乗っていた軍艦が三度も沈められた。バルト海でのことであった。三度目に雷撃で船が沈められ漂流しているところをソ連の船に救われた。ドイツはソ連などに負けたのではない。数が足らなかっただけなのだ。自分はベッドの上では死にたくない、必ずも一度ソ連と戦ってやっつけてやりたい。自分は今でもカイザー党だ。女房は違うけど。しかし、ドイツ軍がレニングラードなどを改めている時に何故日本は東の方からソ連を攻めなかったのか。そうすれば、ソ連に勝って、今頃は戦勝国としてこの地で手を握りあうことができたのに。惜しいことをした。 痩せてヒョロヒョロなってサニタールの服を着ていても、面構えは海軍将校のそれであった。 われわれはフリッツのために歌をよんだりしたが、彼はハイマートという歌を教えてくれた。カール・ブッセの作詞によるものであった。 その歌を繰り返し、繰り返し皆で歌っているうち、あら方歌詞を覚えて了った。が、フリッツはある日サニタールの白い服を軍服に着換え、仲間と一緒に他のラーゲルに送られることになった。 書いたものは凡て没収されるおそれがあった。私とフリッツはお互いに故郷の住所を暗記するまで教えあって、再会を約束して見送ったのである。 十数年も経って、大蔵省に勤務していた私がドイツに出張した時大使館に出向いていた大蔵省の後輩の書記官が親切にも、フリッツを探し出してくれた、悲しいことに彼はその一年前に亡くなっていた。ブレーフェンというデュッセルドルフから一〇〇キロ位東北に離れた小都市の彼の眠る墓地を訪れた私は、汚れた墓を洗い、花を捧げて姿なき再会を喜び、悲しんだ。 |