back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.06.21リリース

第百五回 <墓地>
 まだ寂聴にならない前の瀬戸内晴美の「嵯峨野より」を書棚から下して開いてみた。今から二六年も前に買ってあった本である。
 書き出しに「墓のある窓」とあって、彼女が嵯峨野の鳥居本に引越した頃に話が始まっている。今は寂聴庵となっている仏餉田町である。直ぐ墓地に続いている土地である。「地続きに墓地があるのは、出家して墨染の法衣をまとっている私には、むしろ有難いながめではないかと思った。」そして、「仕事の手を休め、墓地を眺めるから、外国で訪ねた様々の墓地を思い出す。」そこで外国に行けば、ロシアでも、パリ、ローマでも、アテネ、フィレンツェ、アムステルダムでも、必ずその町の墓地を探した、と書いている。
 私も寂聴ほどではないが、外国へ行くとよく墓地を訪ねる。
 パリへ行くと必ずといってもいいくらいサクレ・クールの丘に昇って市内を見下してみるが、モンマルトル墓地に初めて行ったのは今から五十余年も前であった。スタンダール、ハイネ、デュマ・フィス、ゾラ、ゴンクール兄弟、ベルリオーズ、ドガなどの墓があった。モンパルナスの墓地へも行った。モーパッサンの墓を見たかったからであった。高校に入った頃モーパッサンの「女の一生」、「水の上」などの作品に魅せられた私は、是非原文で読んでみたいと思い、アテネ・フランセの夜学に通った。夜遊びしたい盛りの私は、間もなく止めて了ったが、先生は「ジャン・クリストフ」の訳者山内義雄氏であった。モーパッサンは小説家としての技は本当に素晴らしいものだと思っていたので、一度お墓に参りたかったのである。モンパルナスの墓地にはサントブーヴ、ボードレールなどがある。サルトルとボーヴォワールが一つの墓石に名を刻まれていて、生前の仲を偲ばせていた。
 モスコウにはノヴォデヴィチ修道院に続く墓地がある。チェホフ、ゴーゴリ、ツルゲーニェフ、ショスタコヴィッ、スタニスラフスキー、フルショチョフ、グロムイコ、エリツィンなどが眠っている。
 ロシアには戦後不法抑留された日本軍将兵六万人が亡くなっている。ソ連邦の時代から抑留中死亡者の埋葬についてはソ連邦政府はまことにいい加減な取扱いであって、平成三年、ゴルバチョフ大統領来日の際日ソ間に結ばれた協定において死亡者等名簿の引渡しと並んで死亡者の墓地についてもその維持管理についての国の義務が明記されているに拘わらず、ソ連邦、そして今はロシア政府の誠意が全く認められないのである。死亡者六万人のうち日本側に引き渡された名簿は四万人強であって、残りは未だに明らかにされていない。毎年全国の抑留者の代表(会長は私)として私等がロシア政府の外務省、内務省、軍事省等に残りの名簿の提出等の要請を続けているが、戦後六十数年を経過して、極めて難しい状態となっている。
 収容所はハバロフスク周辺が最も多く、ウラジオストック周辺にもあり、従って墓地も多かったが、場所が不明のところ、放置されていて林地となって了ったところ、工場用地など他に転用されて了ったところなどもあり、かつてその地にいた人も亡くなって来ていることもあり、現時点では墓地の位置すら明らかでなくなったところも少なくない。まことに残念なことであり、亡くなった将兵の遺族の方々に対して大へんお気の毒であると思っている。
 話が、ソ連抑留問題に移って了ったが、樺太や千島で亡くなった将兵の墓はどうなっているのであろうか。浅田次郎の力作「終らざる夏」を読んだが、見通しの誤りもあり、あたら精強の一ッ師団が北辺の地で戦後ソ連軍に襲撃され、失うべからざる命が多く失われたことも忘れてはならない悲劇であった。
 「嵯峨野より」はいろいろなことを思い出させてくれる。
 
 


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