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相沢英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2011.06.08リリース |
第百三回 <トリスを飲んでハワイに行こう> |
かつて一世を風靡したコピーである。今は昔となった。
今から半世紀以上も前外国へ旅行と言うとハワイが先ず目に浮かんだ。 私が初めて欧米へ出張したのは昭和三十年の七月であった。当時は未だプロペラ機DC6で羽田からウェーキに給油によってホノルルへ着いた。アメリカ本土への直行便はなかった。 ホノルルの宿はハワイアン・ヴィレッジ。3LDKのコテイジで素泊まりで一泊十二ドルという。当時、本省課長級の外国出張は日当を含めて一日十五ドルであった。さあ大へん。これでは足が出る。どうしたもんかと悩んだが、ハワイは本土よりも高くて、次のサンフランシスコやロスアンジェルスは一泊三ドルか三ドル五〇セントであったので、やっとホッとしたことを覚えている。 五月二八日付の朝日(夕)の昭和史再訪で昭和四五年七月一日日航ジャンボ機のホノルル便就航の記事が出ていた。大型旅客機ボーイング七四七型機である。愛称ジャンボジェット。 私もそれから何回ジャンボジェットに乗ったであろうか。今やそのジャンボも老いて姿を消すという。 私が初めて飛行機に乗ったのは昭和十九年六月当時主計将校であった私は所属する北支方面軍司令部から南京の支那派遣總軍司令部へ、そこから又武漢防衛軍(後に第三十四軍に編成替)司令部に出向を命じられた時であった。 飛行機は三菱空冷式で三〇人くらいの乗客を載せる大きさで南京から漢口に就航していた。揚子江は漢口まで一万トンクラスの船が遡行できるが、二日の舟運行程を僅か一時間半ぐらいで飛んだので飛行機は便利なものだな、という印象であった。 次に乗ったのは、昭和二十年一月末で、漢口から塩の輸送促進のため第四野鉄司令部のある天津に出張を命じられた帰途、同じく南京から漢口へ戻った時であった。 そのころ占領していたフィリッピンは墜ち、戦局日々に悪化し、揚子江の船はあらかた在支米軍の爆撃でやられたので、南京に滞留していた三万人もの部隊は徒歩で漢口から前線に向うという状況であった。 停泊場司令部からやっと船室が確保できたという連絡があったのは南京ホテルで船便を待つこと三日目くらいであった。将校には船の一室が与えられていた。 ところが、私は、どうしてもその船に乗る気がしなかった。 別途、総軍司令部の顔見知りの中佐参謀に航空便を頼んでいたので、それを俟つことにして船便を断った。 その翌日にやっと漢口へ一便飛ぶという連絡で南京郊外の飛行場に向った。着いているコーレン(高等練習機)は双発で八人乗り。ブルブルとプロペラは回っていたが、前日米軍の銃撃を受けてやっと修理を終えた所だという説明であった。 大丈夫かな、と心配になったが、他に選ぶ道はない。そのまゝ乗って出発したまでは良かったが、三十分程すると、操縦室からの電話の声が耳に入って来た。パイロット、機関士の姿は丸見えであった。その機関士と漢口の誰かとの会話で、漢口の上空に米軍機が来襲しているが、このコーレンが着く頃には帰るだろうという。機関士はまあ飛んでみるかな、と答えている。 こんな機関銃一丁もない丸腰の飛行機が米軍機に遭えば一たまりもない。雲の中を飛ぶコーレンの窓に顔を押しつけるようにして外を見ていたが、見たってどうしようもないことであった。 幸い、漢口空港に着陸した時に米軍機の姿も見えなかってホッとしたが、早速軍司令部に戻って出張報告をしかけた時、同僚の将校からいきなり「貴様足があるか」と怒鳴られた。聞けば、私が乗船すると電報を打っておいた船は九江で米軍機の爆撃に遭い、揚子江の流れの底に沈んだという。軍が使わうと予定していた老幣(国民党政府の発行していた紙幣)も揚子江の藻屑となった。 私が、船に乗らずに飛行機に乗ると伝えた筈の電話は入っていなかったので、私は船と一緒に死んだものと思われていたのであった。 何故、あの時船がどうしても嫌だったのか、今もってわからないが、虫が知らせたとでも言うしかない。 昭和二十九年に東南アジア諸国に出張した時、カラチからニュー・デリーに飛ぶインドの飛行機で何回もエア・ポケットに入った。私も神様に祈るという場面に際会したが、そのルートは夏は八〇〇から一〇〇〇メートルぐらいエア・ポケットで落下し、年に一度くらいは墜落すると言う話をあとから聞いてゾッとしたが、あんなエア・ポケットはその後も経験したことがなかった。 とにかく飛行機は文明の利器であることに変わりはないが、地面に脚がついていないこともリニアモーターカーと同じである。 |