back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.05.12リリース

第九十八回 <話の屑籠余話>
 この頃菊池寛を知っている人は少なくなったと思うが、芥川賞を作り、直木賞を作った人であり、小説家としても、批評家としても幅広い活動をした人で、私にとっても印象の強く、深い人である。
 私の父は、小説など余り関心の薄い人であったが、何故か本箱に夏目漱石と並んで菊池寛の全集が納められていた。聞けば、東京高等師範の英語科で同級、寄宿舎も同室であったという。
 小学校の五年生の頃、寛の全集の中から「真珠夫人」を取り出して読んでいたら父が見つけて、採り上げられたことを覚えている。「まだ早い」の一言であった。
 その時は逆らわずに素直に止めたが、中学の中頃から読み始め、間もなく全集二〇巻ぐらいを読み通した。
 「藤十郎の恋」、「恩讐の彼方に」、「父帰る」、「忠直卿行状記」、「無名作家の日記」、「蘭学事始」、「入れ札」、「屋上の狂人」などの作品、数々の啓吉ものは今でも覚えているし、「真珠夫人」に始まる幾多の長編、「火華」、「新珠」、「第二の接吻」、「結婚二重奏」、「東京行進曲」、「有憂華」なども夢中で読んだ。
 文藝春秋社の創設、「文藝春秋」「キング」などの発刊、文芸家協会の組織を始めとする、一小説家の枠を大きく越えた活動は大きく評価されよう。
 将棋に強く、競馬を愛し、麻雀を好むなど私生活の面でも話題にこと欠かなかった。
 彼の文章は、谷崎潤一郎などの、いわゆる和文調とは異なる、いわば漢文調というか、文章は短かく、だらだらと続けないスタイルで、外国語に訳し易いと言われたが、さもありなんと思わすもので、私の好きな形であった。
 東京高師を退学となった後、一高に入り、いわゆる青木事件で再び退学となったが、一高は私の先輩にも当るし、彼の仲間の久米、芥川などの活躍した文芸部の校友会雑誌に私も再三短篇を掲載された。菊池寛は当時は文芸部では書いていなかったと思う。
 そう、文藝春秋に昭和六年頃から急逝する昭和二十三年まで書いていた「話の屑籠」も文芸家としてのみならず、広い社会的関心からの文明批評であって、毎月楽しみにして読んだ記憶がある。
 最近、彼の生誕百年記念出版として刊行された「菊池寛・話の屑籠と半自叙伝」を読んで、再び懐しい思いをしている。戦前の父の蔵書は戦災で焼失した。戦後、私が全集を買い直したが、今は書庫に眠っている。そのうち、また、読んでみたいと思っている。
 
 


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