back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.04.19リリース

第九十五回 <せめて経験を>
 この頃寝ながらつくづく思うことは、人生行路九十余年もさることながら、その道がいかに曲がりくねって、起伏が多かったか、ということである。自分で意図したわけでもないことも多かったけれど、幾度かおとづれた人生の岐路に際して、自分のとった選択の適、不適が反省されるのである。
 私は、色紙を求められる度に記す文字は「一日生涯」の四文字である。これは、一日をこれ切りの生涯と思って充実して送るようにという意味であって、とくにソ連抑留期間三年の日々において、そのことを念じつつ過酷な生活に耐えていたのであって、過ぎたことは取り返しのつかないものだから、いつまでもくよくよ反省はしないで、常に前向きに、生命の続く限り精進を重ねて行く、ということを念願している私としては、過去の道をふり返ることは本意ではないが、それでも時にその思いにかられる、ということでお許し願いたい。
 私は、小学校五年生の時に急性腎臓炎で一年間休まなければならなかった。その後中学卒までは順調で、ただ佐藤紅緑の「あゝ玉杯に花享けて」の一書に感激し、どうしても一高に入りたかった。四年で失敗し、五年で受けたときは落ちたら死ぬ積りであった。
 一高の三年は文学の道に明け暮れ、小説を読み、小説を書き、小説家を志したが、文学の道は努力だけで成るものではないと思い諦め、文化を育てる環境を作る事を目指して法学部へ入った。文学部に進んでいたら、どうなっていたであろう。
 大学を出て、就職の道をきめる時、外務省と大蔵省の両省に採用されることになり、入省試験当日まで迷いに迷った末、大蔵省に入ることになった。外務省に入っていたら、どうなったであろうか。
 大蔵省に入って直ぐに入営となった。あとは命令のまゝであったが、中支・咸寧の旅団司令部付の経理勤務班長となってから、法務部転科を志望し、法務少尉の命令まで出たが、三十四軍の経理部長に転科を断ってもいいかと言われ、つい従ってしまったが、あの時法務部転科を固執していたらどうだったろうか。おそらく第六方面軍か第三十四軍法務部付の法務少尉となって漢口に残ったか、残らないことになったと思うか、少なくとも進路は変わったであろう。
 三十四軍経理部調弁科が第六方面軍に移ることになった時、私は志望して(北京で許婚者の周子に会えるかと思って)一人、第三十四軍経理部と行を伴にし、それが抑留の原因となったので、あの時皆と一緒に調弁部にいて、漢口に残っておれば、二十年か二十一年の初め頃には日本に戻っていたので、どうなったか。
 昭和二十年の八月十五日終戦の日、たまたま京城の備前屋旅館で身深法務少佐に遭って咸興の軍司令部に戻ることにしたが、いろいろ考えた中で、北京へ行ったら、関東軍司令部のある新京へ行ったら、当初の命令通り奉天又は大連へ行ったならば、あるいはいっそ日本へ帰るべく釜山へ行ったらば、といろいろの選択肢のどれかを選んでいたら、どうなったろうか、と考えてもみる。
 ソ連のエラブガ収容所でクロイツェル中尉が再調査してくれなかったら、少なくとも二、三年は拘留されたのではないか、と思うが、これは選択の内に入らないだろう。
 昭和二十三年夏引き揚げて、随分考え詰め決心をした弁護士への道を、官房長の、同期の他の連中と待遇を一緒にするよ、の一言に参って、あっさり復省したが、もしあの時、大蔵省に戻らず、弁護士の道に入っていたらば、どうなったろうか。
 大蔵省に戻って暫らくした時、大月秘書課長から局部長のポストを探していると言われ、遅れついでに税務署長をやらして欲しいと言い、一週間目に下京の署長が空いたからと言われ、二つ返事で引き受けたが、もしそのとき京都へ行かなかったらどうなったであろうか。
 主計局の半年目、GIビルの米国留学の試験があって、締切日にたまたま文部省の前を通った縁で急遽申し込み、七〇〇〇人で一二〇人採るという激戦に偶然合格し、旅券まで貰いながら出発の一週間前にキャンセルした。これは確か河野主計局長が切角ソ連から帰って来たのに一年かそこらで又外国へ行くことはないぢゃないか、外国へ行きたければナショナル・リーダーの制度で三ヶ月ぐらい行けるし、それがいいよと言われたからであった。
 もしあの時、アメリカに留学していれば明らかに国際派となって、その後の進路は大いに変わっていたであろう。
 主計局の長い勤務の間、何回か他局、とくに金融関係をやらせて欲しいと、毎年希望を出せと言われるごとに書いていたが、全然無視されて来たので、全く諦めて予算一筋に進むことになったが、チャンスは全くなくはなかったのに、他局へ替ることを希望しなかったが、もし希望し、それが叶ったのならどうなっていたであろうか。
 農林の主計官の折に、親しくしていた名古屋製糖の横井社長から、ゆくゆくは名糖の後を継いで貰うとして、差当りは十億円出して作る新会社(たしか、ミゾラオイル?)をつくるとして社長にならないか、という誘いがあった。その時は、考えた揚句、まだ暫らく主計局にいたいからといって断り、私の代りに村上先輩が名糖産業の社長になった。もしあの時、思い切って民間に転出をしたらどうなったであろうか。
 主計局次長以降、あちこちから政界進出の誘いがあった。その一々について詳しく説明することを避けるが(別途書いたものもある)ので、件名だけでも列記しておく。
    横浜市長  藤山愛一郎―澄田智
    大分県参議院議員  村上勇代議士他五名
    東京都知事  田中総理、橋本幹事長
    神奈川県知事  津田信吾、小林與三次読売新聞社社主
    大阪五区衆議院議員  松田竹千代
    神奈川一区衆議院議員  藤山愛一郎
    静岡三区衆議院議員 足立篤郎代議士
    東京五区衆議院議員  都議
    鳥取県参議院議員 田中総理、徳安実蔵代議士
    大分県二区衆議院議員 田中総理
 
 このうち、今から考えると、東京都知事選は乗っておくべきではなかったか、と思う。代わりに石原が出て美濃部に負けたが、それで東京都から衆議院議員に出られたのだと、そして又知事になれたのだから、その道があったと思うし、神奈川県知事、神奈川県からの代議士も悪くはなかった、と思う。(これらについては、いずれ経緯をも少し詳しく記したい。)
 
 第十回目の総選挙で敗れたが、もし当選していれば最高齢であったと聞いた。私が落選したので山中貞則氏が君の代りに河野議長就任に祝詞を読むことになったよと、本人が笑って言ってから何年経つかな。
 
 


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