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相沢英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2011.04.01リリース |
第九十一回 <「地震国日本」> |
災害は忘れたころにやって来るとは古い諺であるが、けだし至言である。津浪も日本列島を過去何回も襲っているし、近くは昭和35年で三陸海岸が受けたチリ津浪がある。
当時、主計局で農林担当の主計官をしていた私は、三陸海岸の漁港を中心として三日余り詳さに被害状況を視察して歩いた。津波の力は数ある天災の中でも並外れに大きいものであることを痛感した。 二度と津浪の被害を受けないように国も巨費を投じて防潮堤の建設などに力を盡した筈であるが、今回はマグニチュード9・0という馬鹿でかい地震による大津波によって、そんな人間の努力を嘲笑うような仕打ちを受けたのである。 石原知事は天罰だ、というような言葉を吐いて、直ぐに取り消した、という。あの発言の直後、彼と電話で話をしたが、気持ちはわからないでもないが、言葉がいささかきつ過ぎはしないか、と言ったら電話の向うで苦笑いしながら謝っていた。 日本が天罰を受けるほど悪い所業をしたと思わないが、それにしても自然の力の怖ろしさをまざまざと知らされた思いであることに変わりはない。 それにしても、原発の被害について思うことは、日本の原発は安全性について信頼をえていたのではないか、ということである。何かの事故が起こった場合の対策について何故日頃もっと実地について訓練もし、いろいろな条件の変化に対応して手段も考えもし、用意をしていたと思うのに、どうも今回の出来事を見ていると、勿論想定外の大きな地震であり、津波であることを決めても、なおかつ、何だか、ただ呆然とし、うろうろしているのではないか、と思えるようなあわて振りに思えてならない。 今日、警視庁の消防自動車の水が目的物に届かなかったのも子供の遊びみたいだしー原発の高さや水の届く距離などはわかっている筈ではないかー自衛隊の機動車の水は流石届いて役にたったようであるが、ヘリコプターの水は何だか役に立っていないようだし、ともかく、最高の技術を盡して作り上げた筈の原発の事故に対するにただ水をかけるという原始的な方法しかないとは、何だか情けなく思えるではないか。あれでは、普通の火事に消防自動車が一生懸命に水をかけているのと一寸も変わりがないではないか。 無論原発などに関して全く素人の私が思いつきみたいな意見を言うほど不遜な気持は持っていないが、何だか、もっと手がないものかな、とは誰でも思っているのではないか。 それともう一つ感じることは、こういう大きな災害の対策は地方の県や市町村のような自治体の能力を越えるものであって、やはり大災害に備えて国として普段から機能的な本部組織を持ち、机上にしても絶えずシミュレーションを考えておくぐらいのことは必要ではなかったか。 地方自治を軽視する積りはないか、何でも権限を中央から地方へ移すことのみが進歩であるかの如き錯覚は有害ですらあると思えないか。 それに、総務省は余りにもいろいろなものを抱え過ぎている、又は自治省と郵政省を統合したのは間違いであると思っている。数合わせが先に立った行政改革のお蔭で、却つて国の行政が停滞したという弊害はなかったか。このへんで反省して、も一度省庁の再編を考えてみたらどうか、と思っている。 単なる機構いじりはするべきではないが、行政の実態に即して効率的な行政組織は何か、を真剣に考えることは何よりも大事であると思っている。 も一つ、つけ加えると、徒らに政府転員の数を減らすことをもって行革の大義とする単純な考え方を改め、必要な職員は確保すべきであると思う。表面に表われる転員数を減らすためにアウトソーシングを金科玉条を考えるような愚を繰り返すべきではない。第一、アウトソーシングでどれだけ国の支出が削減されえたであろうか。大して働いていない役員を高給で抱えたような会社に金を払うようなアウトソーシングに何のメリットがあるか。 そして、一般の会社の社員よりも国の職員の方が公に奉仕する意義は少なくとも高いと言えないだろうか。諸賢もって如何に。 |