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相沢英之 のメッセージ 「地声寸言」 |
2011.04.01リリース |
第九十回 <「『国民生活センター』の役割」> |
独立行政法人「国民生活センター」について、センターの廃止を含め消費者庁への機能の一元化などを検討する議論が本格化してきているという。
国民生活センターは1970年(昭和45年)消費者問題の情報提供、苦情相談、商品テストなどを担うための特殊法人として設立された。 消費者庁は一昨年民主党政権になってから設立されたものであるが、その当初から国民生活センターとの業務の関係について議論がなかったわけでもないが、とも角スタートしてから改めて両者の関連について論議が行われるようになったのである。 私は、当時、経済企画庁の官房長として大蔵省から出向していたが、本来同庁物価局が担当すべき事柄であったが、特殊法人として新しい組織を作らなければならなかったこともあり、官房の仕事として深くかかわることになった。その上1991年(平成3年)経済企画庁長官として同センターの強化充実にいささか努力した、という経緯もあって、そのセンターの成り行きについてはその後も関心を持っており、1997年(平成9年)自民党の行政改革推進本部の副本部長として独立行政法人制度の創設を担当した際、国民生活センターの業務内容についてもいろいろアドヴァイスしたことを思い出す。 環境庁を創設する時、主計局長として関与したが、通産省を初め関係各省から反対が強かったが、私は立場は別として賛成であった。というのも、環境問題が世界的な課題となりつつある中にあって、環境問題を各省に委せておいては、本当の意味で解決に向けて前進しないと思ったからである。各省はいわば生産者、供給者の立場に立っているので、アンティテーゼ的な環境対策はそれらの各省の中で、同一大臣のもとにあっては、なかなか真剣に採り上げられないので、やはり別の省庁として独立させた方がいい、と考えた。そして、環境庁が新築の四号館に入居することにも協力をし、又、三木長官の時には初めて予算を500億円の大台に載せることにも応じたのである。 国民生活センターを創る時にも各省行政に対するいわばアンティテーゼとしての役割を期待したので、親元の主計局にいろいろ無理を聴いて貰って、センターの機能を充実できるように努力した。 当時、私は消費者の立場からの活動というよりも、もっと広く国民の生活の不服不満に直面し、各省庁の行政の中にその解決を反映して貰うことを期待したのであって、だからこそ消費者センターとは言わず、国民生活センターという、いささか大仰な名称にも賛成をしたのである。スポンサーの顔色を伺いながらするのではない商品テストを充実することを考えたし、又、何事によらず生活に不服不満を覚え、相談したい人のために229番(フフク)の電話を設置することを主張した。110番や119番に倣うことを考えたが、これは種々抵抗があり、結局実現しなかったが、いまだに残念に思っている。 私は、例えば、商品テストなどは、テストの現場は対象が変るごとに充分整備するには設備などに金がかかりすぎ、又、一旦設備をすると、人の関係もあって、それを変更することは難しく、その設備、人を維持するために仕事を見つけて行くという逆の発想にならないようにするためには、センターは充分委託費を握って、その配分でテストの目的を達するようにしたほうがいいという考え方であったが、これも現場の抵抗もあって実現しなかった。 私は、各省庁、例えば通産省、文部省などが直接研究所、試験所などを直轄機関として持つことには反対であって、各省は試験研究費を金で握って、臨機応変、研究テーマ、実施機関を自由に選択し、金を配分するという形をとるべきであるとかねがね主張していたが、これも未だに実現が出来ていない。 いずれにしても、国民生活センターと消費者庁との関係については、現場的なことはセンターに委せ、本庁は主としてテーゼを担当している各省庁との間のいわばソフトの問題を担当すればいいのではないか、と思う。こういう後発の役所は既存の役所とやり合うのは不得手とする点があって、とかく、身内に潜りがちとなるが、そうならないように大いに戦闘的な気合いを持って真に消費者の側に立ってどしどし各省庁に注文をつけ、実現に向かって頑張って貰いたいと思っている。具体的な仕分けは消費者庁の担当大臣が英断をもって処理すればいいだけではないか、と思っているが、諸賢如何。 |