back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.08.24リリース

第七十八回 <「終戦の日に思う」>
  よく「たら」、「れば」ということを言う。
 昭和20年8月15日の夕方、私は、朝鮮(当時、韓国と言わなかった)の京城(今のソウル)、南大門近くの備前屋という軍司令部指定の将校用旅館に泊って、独り酒を飲みながら、せっせと家族や友人あてに手紙を書いていた。
 その日の正午、京城の南、龍山の高等女学校の校庭に据えられたラジオで終戦の大詔を聞いたのである。真青に晴れ渡った空を高く高く米軍のB25二機が真白い飛行機雲を曳いて飛んでいたのを覚えている。
 それからは夢遊病者のような半日を市内でさまよって過した。読もうと思って本を2、3冊買ったばかりであった。
 さて、私はどうしたものか。朝鮮軍司令部は全くてんやわんやで、誰もどうしていいか、わからない状態であった。
 酒を飲みながらの、私の選択肢は3つであった。
 1つは、軍司令部(私の属していた第34軍司令部)からの出張命令のとおり、関東軍司令部のある新京(今の長春)及び、貨物廠のある奉天(今の審陽)に行って、指示された通りの物資(毛布75万他)を受け取ること。
 2つは、私の許婚者の住む北京(国鉄出身の父は華北交通の理事をしていた)に行くこと。
 3つ目は、京城から真直ぐ釜山へ行き、関釜連絡船に乗って東京に帰ること。
 さて、どうしたものかと、とつおいつ考えている中に酒は進み、銚子を12、3本並べてみたが決心がつかない。
 そこへ現れたのが同じ軍司令部の法務部の顔見知りの将校であった。そして、皆目様子がわからないから、とに角自分達は一辺、軍司令部のある咸興(咸鏡南道)に戻ることにしたという。外は依然として雨が降っていた。
 人間は心弱いものである。同僚が軍司令部に帰ると知って、俄かに決心がゆらぎ、一緒に行くことになってしまった。夜中に38度線を越して、翌朝は北朝鮮に属する咸興に戻ってしまったのである。それが、軈て侵入して来たソ連軍に収容され、3年近いソ連での生活を送る羽目になったのである。
 もし、あの時、同僚の将校に遭わなかったら、私は、多分北京へ行っていたのではないかと思うし、ひょっとしたら釜山から真直ぐ帰っていたかもしれない。となれば、大蔵省に3年も早く戻って、別のルートで勤務をしていたかもしれず、そしたら選挙などに出なかったかもしれず、云々と思いは繋がって行くのである。
 と思ったところで、現実は何ともなるものではない。飽くまでも「たら」、「れば」の世界であるが、考えてみれば、余りに大きな分れなるが故に、終戦の日の8月15日を迎えるたびに、役に立たぬ繰り言を頭に浮かべてみるのである。
 
 


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