back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.05.18リリース

第六十七回 <「往事茫々」>
 私の学んだ旧制一高の寮歌の一節に「慕えど友の去り行くを何日(いつ)か相見えん由もがな」とある。これは三歳(みとせ)、朝夕住み馴れた寮を離れる時の詞である。「友の憂にわれは泣きわが喜びに友を舞う」。十代の青春を共に過した友人たちはあるいと兄弟以上の親しみを持ち、大学へ入っても、社会に出ても心を許してつき合って来た。お互い会えば、「おう」と言って、酒を飲み交し、世相を論じるかと思えば、取り止めのない雜談を交しているに過ぎないのだが。
 同じクラス30人、戦争で特攻隊で亡くなった友もいる。2階組特進で軍神などと新聞に称えられたが、そんなことよりも彼の死を惜しんだ。小柄だったが、いつもニコニコしていい男だった。
 寮から教室までは歩いて3分とはかからない。それでも教室へは毎日は通わなかった。授業は今と違って土曜日もあったから年間二百数十中。1日8時間計算としても70日までは欠席できたが、それ以上は1時間越えても落第と決められていた。といって、それ以外も代返も随分活用した。友人に頼んで先生が出欠簿で名前を読み上げる時に代りに出席の返事をして貰うのである。1人で5人ぐらい引き受けることはザラで30人のクラス全員の返事を5、6人ですることもあった。
 中には几帳面な先生もいて、3クラス合同の国史の時間などは、返事だけでなく、声と一緒に席に立たすのであった。F教授であったが、返事の都度一々顔を見て、「オヤ、君は4回目ですね」とか、言ってニヤリとするのであった。そんな時はイヤだなぁと言いながら代返を引き受けるのであった。
 一番恰好のつかなかったのは軍事教練であって、一週間に1回はあったと思うが、4、5人しか本当に出席しないものだから、横隊の時、38式歩兵銃を担いで右向け右という号令で右を向いても縦隊にならないのであった。万特と呼ばれていた退役万年特務曹長が指揮していたが、叱るのを諦めているようであった。
 校長が時々桜鳴堂という小講堂で倫理の授業をする。この時は大へんなのである。玄関の表に出欠札がかかって、その傍に羽織袴の書記が見張って眺めている。それをどうして代札するか、が問題であった。みんなで一計を案じた。それは、誰か1人が犠牲となって見張りの前で先ず自分の名札をおもむろに引っくり返す。続いて、他の人のをもう一枚引っくり返して、矢庭にゆっくり逃げ出すのである。それを書記が「コラッ」と言って袴の裾を翻して追って行く。追いつかれないようにゆっくり走って逃げる間に、他の人が頼まれた分を含めて、3枚でも4枚でも引っ張り返すのである。校長の話が詰らなかったわけではないし、他の授業の先生方の講義も聞けば勉強になることはわかっていたが、とに角、自由な時間を最大限作りたかったのである。
 さて、そうやって捻出した自分の時間を何に使ったと言えば、寮の自習室で自分の読みたい本を読んでいたのである。私の場合は、大ていの場合小説であり、詩であったが、当時岩波文庫の全盛時代であったから、色とりどりの帯の1つ星20円の文庫を1日1冊以上もの勢いで読んでいた。
 現代ものは勿論、日本の古文も外国の翻訳ものも手当たり次第、たまには1棚纏めて買うような意義込みで読んでいたのである。蚕が桑の葉を噛むようにモリモリと音を立てんばかりのスピードであった。
 その頃、寮の自習室には15人分ぐらいの机と椅子が置かれていた。若いだけに、そして全国の各中学から気負って入学して来た人が多かっただけに、お互いに今は何を読んでいるのか、それとは口に出さないまで絶えず注目していた。あいつはこんなものまで読んでいるのかと、凄い刺戦になった。
 西田幾太郎の「善の研究」、倉田百三の「出家とその弟子」、和辻哲郎「古寺巡礼」などは誰もが読んでたし、カントの「純粋理性批判」なども原文のレクラム文庫版に取り組んだりした。プラトン、カール・ヤスパースや、デカルトやパスカルなど名前も思い出している。競争のように読んでは話題にした。日本や外国の近現代の作家となると、数え上げるのも大へんだが、それは次の機会に書くとする。それでは本ばかり読んでいたのか、と言うと、運動部に属しているものは別としてよく散歩をした。寮歌を歌いながらである。
 教室の合間には、寮の二面あるテニスコートで仲間とテニスをしていた。軟式である。授業時間中は空いていたので青空のもとのびのびとプレーを楽しみ、汗を流した。
 夜はしばしば渋谷の町に歩いてくり出し、百軒店で一杯10円のウイスキーを10杯も飲んで1円を置いて来た。おかしいことにジョニーウォーカーの黒でも赤でも、ブラック・アンド・ホワイトでもオールド・パーでも、何でも一杯10平であった。瓶のレッテルこそ違え、中味は同じ国産ウイスキーではなかったか。スタンドの前の高い腰掛にかけて、ホステス相手に1時間ぐらいつぶしては、次の店を覗いたりする。渋谷の3ピンといって3人の美人がいたけれど、無論今となっては生きてはいないだろう。
 つい先だって、クラスで僅かに残っていた友人の1人が亡くなった。近所に住んでいただけにいつでも会えると思っていたのが、却ってわざわいして病院にかけつけられなかった。
 本当に口数の少ない男で、クラスでは気にのらなければ、授業中も他の本を読んでいた。小説の類(たぐい)は勿論のこと、難しい哲学の本も黙ってスイスイ頁をめくっていた。
 会津の造り酒屋の生れで、酒も強く、ニコニコしながら黙ってひっきりなしに飲んで、酔った姿を見たこともなかった。
 日本語も余りしゃべらないのに、しょっちゅう国際会議に出席していた。仲間に聞けば、耳はたしかなので、イエスかノーかを間違いなく判断して、挙手をしてくれるので、充分役に立つ貴重な存在という話であった。何十年も昔の話である。
 往事茫々、皆逝ってしまったようだが、昔の仲間の友情だけは忘れたことがない。
 単なる思い出話になってしまったが、読者諸賢如何。
 
 


戻る