back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.04.20リリース

第六十五回 <「運・不運」>
 今から30年前のことである。旧制一高同級生の一人、浅沼清太郎君(元警察庁長官)が出張でアメリカに行った。サンフランシスコからアメリカ大陸を東へ飛ぶ時に予定の便を何かの都合で変更したところ、その予定便であったTWAの飛行機がロス郊外でUAの飛行機と衝突し、両機とも墜落するという惨事が発生した。
 その2、3日後、たまたま同じ時期アメリカに出張していた私は、同じく高校同級生の細谷千博(元国際大学副学長)のワシントンの宅でバッタリ彼と顔を合せて、初めてそのことを知り、驚くと同時にその幸運を祝しお互いに夜明けまで痛飲した。
 その頃、ワシントンの日本大使館の女性外交官が日本に帰任を命じられ、当初シカゴに寄って帰る予定の便を、俄に変更してカナダのモントリオール行きに乗ったところ、これが墜落し、彼女は亡くなった。
 昭和20年の正月、私は南京にいて漢口行きの便船を待っていた。当時、南京には日本軍の将兵3万人が滞留し、通過部隊宿舎は溢れかえるようであった。皆、船待ちであった。私は、当時、漢口にある第34軍司令部経理部部員の主計少尉であった。北京の北支方面軍司令部に石炭と塩の輸送促進の件で出張していた帰途であった。
 なかなか便船がないというので、停泊場司令部に漢口迄の乗船を申し込んでおくと同時に南京の支那派遣総軍司令部の知合いの中佐参謀に飛行機の便も依頼した。当時、飛行機は佐官以上でないと乗せないことになっていたが、何とか便誼をはからってみるという。そういう所は、軍隊も案外融通がきいた。
 南京ホテルに滞在すること3、4日して、停泊場司令部から電話があって、船便がとれたと言う。ところが、どうしても気が進まないので、飛行機の方は見当もついていなかったが、それを当てにして、乗船を断った。
 その2、3日後、やっと飛行機に乗れるという連絡で、1月24日頃だったか、朝まだきの南京飛行場に駆けつけたら、高等練習機がプロペラを回している。やっと間に合ったと乗ったその飛行機―略して「コーレン」と呼ぶ八人乗り位の双発の練習機―は、前の晩に米軍の銃撃を受けて修理したばかりだという。気持ちが悪い思いで乗ったが、途中上空で米軍の戦闘機にすれ違うようにして漢口の飛行場に着陸した。
 軍司令部に車で着くと、同僚の将校が「貴様足があるのか?」と口々に言い、驚きながらも喜んで迎えてくれた。
 わけを聞くと、南京から軍電で私が船に乗るという通知だけが入っていて、その後何の連絡もなかったが、その船が揚子江を遡上中、九江付近で米軍の爆撃機に遭って虎の仔の何億円という札とともに沈没したという。札の護送に当った主計の下士官も同じ運命であった。私は、本当に生命拾いをしたのである。
 それより半年前、私は、武昌から粤漢線で南西に走ること3〜4時間の咸寧に駐留する旅団司令部に勤務していた。経理勤務班長として米雑穀その他の物資の収買を担当していた。
 咸寧の町は四方を城壁に囲まれた県庁の所在都市―という程のこともない町であったが、そこは毎日のように米軍機が飛来していた。
 ある日、B15十数機の爆撃を受けた。下士官2名をつれて城内を歩いていた私は、キラキラと光りながら降ってくる爆弾を初め伝単でも撤いているのかと思って道端に立ちどまって見ていた。すると、城外からドドーンという爆弾の炸裂音とともに煙が高く吹き上がって急行列車のように近づいてくる。咄嗟に近くのタコ壷に飛び込もうとしたが、一人の兵隊が入ってかがんでいるではないが、一瞬うろたえたが、矢庭に頭上を襲ってきた敵機を避ける暇もなく、耳を抑えて地面に倒れるように伏した。
 一瞬嵐のような爆裂音と砂煙に包まれた私は、2、3度ドーンと身体が浮き上って地面に叩きつけられたが、ふと我にかえってみると背中が痛い。手を回すとヌラヌラする。ヤラレタと思って背中と胸を両手で抑えてみると、破片は入っていないようだ。破片で背中に傷を受けただけのようであった。
 私の連れていた下士官がどこへ行ったのかわからない。直ぐ傍のタコ壷は直撃弾に見舞われた兵隊が即死していた。彼がいなくて私が飛び込んでいたら、私はやられていたはずである。探し出した下士官は道から20メートル程離れた貨物廠の倉庫の中に頭を負傷し、意識不明で倒れていた。早速リヤカーを探して野戦病院につれて行ったが、病院は負傷者の担架が続々と運ばれてきて、軍医は下士官を一眼見るやダメだという。助けられそうな負傷者から手術をするという。私は、無理を言って手術台に担ぎ込んで、処置をして貰ったが、彼は一週間も意識不明であった。
 結局、彼は助かったが、私も、ほんとうに一寸の差で命拾いをした。
 私は、咸寧の旅団司令部に勤務していた頃、米軍機の銃爆撃から危うく命拾いしたことが何度となくあったが、不思議と助かった。漢口の軍司令部に勤務していた間も、毎晩のような爆撃の間を縫って、若さに委せて飲み歩いていたから、何度も危ない眼に遭った。宿舎の屋根も銃爆撃でやられて、天井の壊れたところからは星が見えて、いくらかセンチメンタルになった。雨の日は全然ダメで、バケツを並べ、雨だれの音を耳に寐るような始末であった。
 漢口の江漢路という繁華街に飲みに行ったある晩、空襲警報になったので、同僚将校と自転車で宿舎に戻る途中、時限爆弾が突如破裂して、5メートルほど後ろを歩いていた数名の見習い士官がやられて、1人が戦死した。数秒おくれていたら自分達の番だったと、飛び降りた自転車を起しながら同僚と無事を祝し合った。
 運とは何だろう。個人個人について回るものなのであろうか。
 昭和20年6月末、第34軍司令部は北朝鮮に転進を命じられた。暑い漢口の夏の始まる頃であった。1年余りの短いと言えば短い勤務であったが、いろいろ挨拶やら、事務の引継ぎなどもあって多忙であった。
 武漢地区の部隊は粤漢線の前線にある十一軍及び第二十軍が下流に引き揚げる間、いわば籠城覚悟で踏みとどまることとなった。玉砕覚悟とも見られた。われわれはそれに加わらないで助かったという喜びで、京漢線を遡上し、黄河を渡る時は期せず万歳を三唱した。生命拾いをしたという思いであった。
 ところが、あに計らんや、人間万事塞翁が馬、北朝鮮に入ったわれわれは日ならずして八月末の終戦を迎え、十目ソ連にいわば拉致されて抑留の憂目に遭い、漢口に残って気の毒なことだと同情した部隊は20年の暮から翌年にかけてみな帰国したという。同情したわれわれが同情されるようになった。人生ままにならぬ一幕であったが、読者諸賢如何に思われるや。
 
 


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